今回は英語科の山下太郎先生です。
2008年12月7日(日)午後、顧問をしていらっしゃる中学サッカー部の試合の後、茗溪学園4年B組の教室でインタビューに答えていただきました。
父母会HP編集委員会 内田(28K)、齋藤(28K)、高木(29K)、森田(29K&30K)、茶木(30K)、伊藤(30K)
異文化との出会い
―子供の頃の話を聞かせてください。
生まれは東京都八王子市です。母の仕事の都合で幼稚園時代の3年半を石川県の能登半島の先端にある磯町で過ごしました。小学1年で八王子市に戻り5年生までそこで過ごしました。父がとても野球好きで、小さい頃すりこぎ棒をバットにかごをヘルメットに見立ててよく遊んでくれました。自分から頼んで、最初に買ってもらったおもちゃはバットとグローブでした。小学校の頃は少年野球チームに入り友達と熱中していました。


6年生の頃、母の仕事の都合でブラジルのサンパウロへ行き、中学2年生までの3年間そこで過ごしました。母が現地で、国際協力機構(JICA)と外務省の共同プロジェクトによる「ブラジル人に日本語を教えるシステム」の立ち上げを行うことになったのです。父は日本に仕事があり妹は小さかったので、身の回りのことが自分でできるようになっていた私が母についていくことになりました。
サンパウロでは主に日本人学校に通っていました。日本語がメインの生活でしたが現地の子供も通ってきてましたのでブラジル語と英語も必要でした。私が最初に外国語に接した時に2ヶ国語が同時に始まりましたので、頭の中がすごく混乱しました。そのため外国語を学ぶことが嫌いになって、当時英語は苦手でした。
サンパウロに到着してすぐに現地の野球チームに入りました。ブラジルはサッカーが盛んですが、日本人がたくさんいる地域では野球をしている人もいました。その後サンパウロの少年野球の代表チームにも入りました。その時に日本の代表チームがサンパウロに遠征に来て試合をする機会がありました。
taro2ブラジル滞在中の後半に少しサッカーも経験しました。ブラジルといえばサンバとサッカーが有名ですが、ワールドカップ開催中は、たくさんの人が応援のために仕事を休むんです。試合に勝てばお祝いで仕事を休み、負けても残念だったと言って休みます。お金をためるより、サンバやサッカーの応援にお金を使っていました。その様子を見て、ブラジルの人は生きることを本当に楽しんでいると思いました。
―離れて暮らしていた時の父親の存在はどういうものでしたか?
私にとって父の存在が薄くなるようなことは決してありませんでした。父は半年から1年に1回、ブラジルにグローブを持ってやって来ました。その時にいろいろな話をたくさんしましたし、次に会うときまでの野球のフォームの課題も出してくれました。そして、「母親と2人なのだから、おかあさんの助けをしていくんだよ。」などいくつかのポイントをアドバイスして帰っていく。たとえ離れていても父は私にとって大きな存在でした。
また、両親は私の成長を記録しているのですが、太郎と名づけた由来から始まって、私の生い立ちや、その時々に両親がどういう思いで育ててきたのかが綴られています。父は今も続きを書いています。子供の頃にはその有り難さが分かりませんでしたが、今はこれ以上の宝物はないと思っています。そして私が親になったらもっと有り難くなるのかなと思います。
―サンパウロでカルチャーショックはありましたか?
最初は日本の友達と会えなくなったのが寂しかったですね。だんだん現地に友達が出来てくると、いろいろな人に会え、いろいろな体験ができ、ブラジルに来てよかったという思いが強くなりました。日本人学校には優秀な生徒がたくさんおり、勉強はついていくのがとても大変だったのですが、私を伸ばしてくれた場所だったと感じています。年に2~3回、日本人学校の敷地内の農園で皆でコーヒーの実を収穫したりしました。コーヒーの実は生のまま口に含んでも甘くて美味しいですよ。
治安があまりよくない所もありましたので、通学はスクールバスが家の前から学校まで送迎してくれました。それでも、住んでいたホテルの玄関で、日本人の駐在員がピストルで後ろから撃たれて車を奪われる事件がありました。事件の後はとても怖かったです。また、通っていた学校にはよく泥棒が入りました。そのため外に出る時には気をつけることが自然と身につきました。
帰国した時の逆カルチャーショックはほとんどありませんでした。ただ、帰国したのが中学3年の時でしたので高校受験が大変だったことと、小学校の時に野球を一緒にしていた仲間が私より上手になっていたことでしょうか。
教員への道
―どのような高校生時代でしたか?
taro3野球ばかりしていました。野球部の顧問の先生にひたすら走らされました。ワァー!と大声を出しながら走るのです。夏の合宿では100mダッシュ30往復が当たり前のようにありました。部員は58名いたのですが1年生から順番に倒れていきました。キャプテンだった時には最後まで倒れられないと思い先生をにらみ続けながら走っていました。その先生が「山下は優秀な選手ではなかったが、1番性格のいいキャプテンだった。」と私の結婚式でスピーチしてくださいました。先生は私の良さも弱さもとても理解してくださっていました。そして、精神的にすごく鍛えてくださいました。この出会いがなければ私は今でもやさしいだけの人間だったでしょう。
この時期、一番なりたくないと思っていた職業が教員でした。これは両親が教員であることが影響していると思うのですが、反発というよりは、特に父をライバルと見ていたからです。父が大きな大きな目標だったのです。どこに行っても父はすごく存在感がありました。でも、息子としてはいつまでたっても父の下というのは納得いかなかった。そして、同じ職業では父を超えることは出来ないと思っていました。父を超えるための職業を考え、外交官になろうと思いました。サンパウロで、日本の領事館の方がリーダーシップを取っている姿が子供心にかっこよく感じていたのでしょう。
外交官になるには、まずは英語力が必要ですが、ブラジルで感じた苦手意識がなかなか抜けず苦労しました。苦手な英語力を上げるために最初に頑張って単語を覚え、それからひたすら問題集を解いていきました。するとある時期に成績がドンと上がり、その後はどんどん英語を好きになっていきました。
―大学生時代はどのようでしたか?
外交官を目指して獨協大学の英語学科に入学しました。入学してすぐ野球部の練習を見にグラウンドに行ったのですが、野球部の隣でアメリカンフットボール部がものすごい気合で練習している光景を見て、私の中の熱い血が騒ぎました。男として強い人になりたいという気持ちがあり、スポーツをやるからには気合を入れてやりたいと思っていましたので迷わず飛び込みました。1年でランニングバック(攻撃側でボールを持って敵陣に走りこむのが主な役割)のポジションになりましたが、またまた走る量が半端ではなかったです。入ってから、野球とアメフトは共通点がたくさんあることを知りました。両方ともアメリカ発祥のスポーツなので動き方に分業制という考え方があり、攻撃と守備の動きが全くちがうのです。
―外交官志望だったのになぜ教師になろうと思ったのですか?
私は人間が大好きで、『たくさんの人』と友達になりたいと思っていました。大学の同級生に帰国子女や英語が流暢に話せる人が多勢いて、彼らは外国人ともすぐ友達になれました。その当時、私は英語で思うように話せなかったので、もっと英語が話せるようになるとたくさんの国の人と友達になれると思いました。
taro4そこで、英語の勉強と人との出会いを求めて、バックパッカーをしながらいろいろな国に出かけました。海外旅行はその後も休みが取れると行っていますので、これまでに合計30~40カ国を訪れたかと思います。外国で『たくさんの人』と出会って、ますます人が好きになり、もっと『たくさんの人』と出会いたくなりました。そして私は『たくさんの人』と出会えると幸せを感じると気づき、『たくさんの人』を相手にする職業に就きたいと思い、『たくさんの人』と交われる職業を考えた時に・・・素直に「教員になりたい。」と思いました。
それと、母校の高校に野球のコーチに行き、私が高校時代に教室でもグラウンドでも一生懸命やっていて楽しかった事を思い出しました。その頃にまた戻りたい、もしくは生徒たちが一生懸命やる姿を見たいと思いました。
もう1つ、アルバイトをしていた時、一緒に働いていた高校生がしっかりとした目標を持ち大学進学を目指していました。彼の英語の勉強を手助けしているうちに、自分が出来ることで高校生の助けになるのはうれしいと思いました。高校生にもっと会ってみたいと思ったのは、彼との出会いが大きかったです。
―教員を決意してからどのようなことをしましたか?
教員になるために、「英語力を高めること」と「教えること」を勉強したいと思い、獨協大学の交換留学制度を利用することにしました。2度目の試験に合格して、イギリスのエセックス大学に1年間留学しました。ロンドンから電車で北に1時間くらい行ったのどかな所にある大学です。そこで英語学で世界的権威のビビアン・クック先生が指導教官に就いてくださり、教員になるために必要な「言語学」を学びました。

テネシー大学の文化祭では、大学中をパレードの行進があり、留学生はみな自国の服などを着て参加しました。

また、イギリスでもスポーツを通して友達を増やしたいと思い、クリケットクラブとアルティメットクラブ(フライングディスクを用いたアメフトのような競技)に入りました。
そして留学期間を含めて6年間の大学生活の後、栃木県の高校に3年間勤めました。
さらに英語教育のスキルを磨くために、アメリカのテネシー大学の大学院に入学し、2年間学びました。大学院生活の後半に留学生のお世話をするセクションでアルバイトをしました。テネシーに来る留学生を空港に迎えに行ったりしましたので、ほとんどの留学生と知り合いになりました。とても楽しくて面白い経験でした。
茗溪学園との出会い
―茗溪学園との出会いは?
就職活動は、テネシーの大学院在学中にインターネットを通して行いました。家族や友人の住む東京からのアクセスがよくて、エセックス大学やテネシー大学のように自然に恵まれた環境にある学校を探しました。修士論文の執筆と並行して就職活動をしていましたので、就職の面接試験のために3日間だけ帰国し、すぐにテネシーに戻りました。茗溪学園での面接で印象的だったのは、「泳げますか?」と聞かれたことです。その時は英語科の教員の面接でなぜ水泳について聞かれるのか、ただ不思議に思ったのですが、「私の家系は祖父の代まで漁師をしていたので、泳ぎには自信があります。」と答えました。茗溪学園に勤めて高校1年生の臨海訓練が大事な行事であることがわかり、あの時の返事で採用が決まったのかと思っています。
―日常生活で大事にしていることは?
1つはなるべく笑顔でいること。もう1つは、今年結婚をして1人ではなくなったので、怪我や大きな病気などして心配をかけないように身体を大事にすることです。まずは家族を増やしたいです。それから皆が健康であればいいですね。
運動はずっと続けていきたいと思っています。今は、妻とバドミントンやゴルフをしています。今年は一緒にマラソン大会に参加しました。私はボールが転がっていればどこまでも走っていきますので、種目はある程度妻に合わせて、2人でいろいろなスポーツをしていきたいと思っています。

山本有三文学碑

山本有三文学碑

大事にしている言葉は『路傍の石』の一節です。「たったひとつしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか。」これは、以前勤めていた高校の近くの大平山(栃木県栃木市)の頂にある山本有三さんの文学碑に書かれているものです。辛いことがあったとき、山に登ってこの碑を見て、またがんばろうと思いました。その碑の写真を撮ってパソコンに取り込んであり、今も時々パソコンを開いて見ています。
―英語教育を通して生徒に伝えたいことは?
茗溪学園の英語教育の特徴は、生徒達が英語を実際に使う機会をたくさん用意していることです。中学1年、2年で「英語劇」を行います。中学3年の「クロスカルチュラルトーク」では、JICAの筑波国際センターから30~40名の外国人研修生を招いて母国の話などをしていただきます。生徒達は研修生ととても楽しそうに話をし、「外国の人と話ができてよかった。」「もっと話したかった。」などの感想を持ちます。自分から英語を使ってみようという場を作ったり、教室から飛び出したりする授業が特徴です。
taro8英語を使えることによって自分自身に自信を持つことができ、ものおじしないで外国人とも話せるようになりました。生徒達には、『たくさんの人』とコミュニケーションをとってもらいたいと考えています。コミュニケーションを通じて、その人、その国の文化を知り、お互いをもっともっと知る機会を得てほしいと考えています。そのためには、生徒にはまずは英語を話せるようになってもらいたいと望んでいます。英語をきっかけとして、一つの言語が使えることが自信になり、『たくさんの人』と話し合え、理解できるようになると考えています。
私が英語を学び始めたきっかけが「人と話をしたい」でした。日本人だけでも優しい人、面白い人がたくさんいます。それが英語を話せるようになると、世界中に友達が出来ますし、自分に自信がつきます。そのことを伝えたいです。
―今日はお忙しいところを長時間、楽しいお話をどうもありがとうございました。

結婚のお祝いに、生徒たちが黒板いっぱいに書いたメッセージ

結婚のお祝いに、生徒たちが黒板いっぱいに書いたメッセージ