守谷地区父母会エッセイ ~もりもり~ 第3回

父母会守谷地区では昨年持ち回りで父母が学校にまつわるエッセイ「もりもり」を2021年度1年間にわたり書いて共有されていました。守谷地区父母会からのご厚意でホームページ上でも公開いたします。今回は第3回目です。

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もりもり 2022年1月号
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
今回は私が参加させていただいております茗溪学園の「日本語ボランティア」についてお話します。

本来ならば毎年、茗溪にはたくさんの留学生が学びに来ます。
留学生たちの空いた授業時間に「1 対11 で日本語でお話しする」という活動が日本語ボランティアです。
その内容は各ボランティアに任されておりますが、私の場合「お互いの国や文化の紹介、家族のこと、宿題の手伝い、黒板を使って漢字クイズ、なぜ日本に来たかったのか、将来の夢、最近の出来事、日本の生活で困っていること」など、いろいろなことを日本語でおしゃべりしています。
留学生たちは日本語で日常会話ができるので、英語ができなくても大丈夫だと思います。
もしかして日本語教師や英語の資格をお持ちのボランティアの方などは、より高度な授業をされているのかもしれませんが、私は留学生たちと楽しくおしゃべりしています。
先生方がおっしゃるにはそのような日常会話が日本語の上達にとても役立つそうです。
留学生たちにとって憧れの大好きな日本に来て、日本のことをたくさん知り日本語がどんどん上達する、まさに夢のような毎日でしょう。
時にはホームシックになったり、勉強や習慣が分からず辛い思いをすることもあるかもしれませんが、キラキラした目で一生懸命に日本語を話す彼らを見ていると、「がんばれー」と応援したい気持ちになり、温かい気持ちにさせてもらえます。
また近いうちにたくさんの留学生が日本に来られるように、たくさんの日本の若者が海外に飛び立てるように、心から願います。

今はコロナ禍のため活動を休止しているものも多いですが,茗溪にはお父さんお母さんによるボランティア活動がたくさんございます。
ボランティア活動を通して子供たちの活躍や先生方の一生懸命さを目の前で見ることができ、親としてもありがたい貴重な機会をたくさん頂けていると思っております。

2022 年1 月

 

もりもり 2022年2月号

MEIKEI making the difference
「なぜ茗溪生に?」というテーマでお話しさせてください。
転勤族の我が家は、いつどこに引っ越しをするのか予測不能、行き当たりばったりの子育てでした。(小学校か中学を卒業するまでは家族一緒に。夫の転勤についていこう、と何となく決めていただけ)
地方出身で、関東圏の学校を知りません。そんな私が「茗溪」の名を知ったのは、息子が小4の夏頃でした。
土浦市で開催された「アマチュア無線」のイベントに遊びに行った時、学校の科学部無線工学班が出展していて、何やらPR をしていたのです。
趣味がアマチュア無線である息子は「無線の部活があるんだ!」と目をキラキラ輝かせ、食い入るように顧問の先生と班員の話を聞いていました。
その日、突然「茗溪学園」を目指すことになったのです。どんな学校なのか?全く知らず、まずはリサーチをしました。
・世界的日本人の育成
・教育実験校
というキーワードが目にとまりました。
最初は「国際的で、面白そうな学校だな」と感じる程度でした。
ある時、守谷駅で「making the difference」と書かれた看板広告の前で立ち止まり、
「ちょっと変わったことが好きな息子が、楽しめる学校かも?」
と、確信に変わっていきます。息子の「好き」から引き寄せられ、茗溪とご縁をいただきました。

入学式の翌日、ひとり科学部無線工学班のドアを叩き、大好きな無線機に囲まれた部室へ。校舎の屋上には、空高くそびえ立つアンテナ。素晴らしい顧問の先生、やさしい先輩方、好きなモノに囲まれた最高の空間だったようです。

その日から 3 年近く経ち、想像以上に勉強が大変だったり、思春期の苦労も味わいながら乗り越え、中学卒業を迎えることができました。
アマチュア無線から知った茗溪学園。守谷の温かい皆さまとの出会いにも感謝します!

2022 年2 月

 

もりもり 2022年3月号
今回は外部の高校からの大学受験についてお話させていただきます。
少しイレギュラーな内容となりますが、こんなケースもあるんだなぁとご参考程度に読んでいただければと思います。

茗溪でお世話になっている娘の兄のエピソードです。彼は3歳から高3までサッカー一筋で生きてきました。
高校からは親元を離れて寮に入り、サッカーメインの生活を送っていました。
チームメイトにも恵まれ、チームでも個人でもそれなりの成績を収める事ができました。
そんな中、高2の途中で難病を患い、サッカーを続けていく事が困難になってしまいました。
元々大学は自力で進学し、大学サッカーを続ける予定でしたが、病気になり進路変更に迫られ、なんと高 3の途中から文系から理系に変更したいと本人が言い出しました。受験まであと1年あるかないかの時期でしたが、最終的には本人の意思を尊重し、理系に変更しました。
その後2浪しましたが、なんとか無事に国立の医学部に合格する事ができました。
1番上の姉は指定校推薦でスムーズ?に進学したため、2番目でまさかこんな事になるとは夢にも思いませんでした。難病認定された時は落胆してしまいましたが、この様な次の道が開けるとは考えてもいなかったので、サッカーを頑張って続けた事も病気になってしまった事も本人にとっては意味のある経験だったんだなぁと今になっては思える様になりました。
良い事も悪い事も含め、沢山の経験をしてそれを元に自分で考え、行動し、後悔のないように生きて行って欲しいと親心として改めて感じさせられた大学受験でした。