国語科:鈴野高志先生


今回は国語科の鈴野高志先生です。
2007年7月26日(木)茗溪学園 第3AVE教室でインタビューに答えていただきました。
父母会HP編集委員会 吉田(慶)(29K)、野口(28K)、内田(28K)、石原(28K)、塚田(28K)

―鈴野先生のご出身は?
生まれは東京都大田区の矢口渡(やぐちのわたし)というところです。小学校の2年生まで住んでいて、神奈川県の相模原に引っ越しました。今はベッドタウンになっていますが、当時はもう自然そのものという所でした。東京の下町からいきなりそういうところに来て、見る物、聞く物が本当に図鑑のとおりだと思いました。カマキリの卵を見つけた時は、珍しくて、枝ごと家に持ち帰ったら、2、3日後に玄関中に小さなカマキリがいっぱいで大騒ぎをしました。近くに小さな山があって、毎日友達と探検ごっこのようなことをしていましたね。蛇を見つけては逃げ出したり、そういうことが楽しい思い出です。
中学2年生の時、今度は埼玉県岩槻市(現在のさいたま市)に引っ越しました。人形の町で、3月のひな祭りと5月のお節句の前だけはたいへん賑やかな町になるんですが、それを過ぎると静かな町です。
転校を2回しましたが、今考えるとすでに出来あがっている集団の中に入っていくというのは、苦手でしたね。あまり自分から積極的に話しかける方では無く、待っている方だったので、転校して2日くらいは自分の席にじっと座っている感じでした。周りの子といろいろ話すようになるのは3日目くらいでした。


―大学時代からつくばに住み始めて20年
大学が筑波大学でしたので、もうここが一番長いです。こんなに長く住むとは思っていませんでした。私がつくばに来たのは1986年で科学万博の次の年でしたから、それからどんどん変わり、TXが入ってきたら、今は全く違う世界になってきましたね。
―国語科の教師になったきっかけは?
自分から人に対して声をかけたりするのは苦手なくせに、自分が何かをやったことに対し、相手が笑うという反応をみるのが好きでした。落語をやった(筑波大で落語研究会に入った)のも、サークル勧誘誌を見ていた時に「人前で話せるのは一生の宝」というフレーズが目に入って、ああこれは楽しそうだなと思ったからです。もともと「笑点」などが好きでしたのでやってみようかなという気になりました。当時、さだまさしという歌手が好きでしたが、彼が大学時代に落研に所属しており、それでステージトークが上手になったという話を聞き、そういうあこがれもあったのかもしれません。人前で何かしゃべれたら楽しいなと言う気持ちと、それと言葉に対する興味がもともとありました。
大学の学部が「日・日」(日本語・日本文化学類)というところで、外国人に日本語を教えることを専門に学ぶ学部でした。そこでは、私が中学、高校で習ったような「こ、き、く、くる、くれ、こよ」といった文法の勉強ではなく、ある意味で実験しながら言葉を入れ替えてそれがどう伝わるか考えたりする。そのような勉強がすごく楽しかったので、最初は日本語教師になろうと考えました。ところが、学生時代に土浦の塾でアルバイトをした時に、純粋な生徒達とのやりとりがとても楽しくて、子供に教えるのもいいなあと思うようになりました。当時、男子生徒はみな丸刈りで、同じように見える丸刈りの生徒達にもそれぞれに個性があるのだと感じたからです。それとやはり言葉に対する興味ですね。研究者という道もありましたが教師を選びました。
―茗溪学園との出会い
就職活動をしている時、私立の教員採用の一斉テストを受けて、その結果を見た茗溪学園から声がかかり面接を受けました。その時、初代岡本校長からいろいろとお話を伺い、国語の教師としても、また留学生が多いので日本語の教師としても仕事が出来るということで、これほど自分に合ったところはないんじゃないかと思いました。大学在学中はつくばに住んでいたので、茗溪学園はラグビーで日本一になった学校だということは知っていたのですが、どのような学校なのかほとんど予備知識はありませんでした。岡本校長のお話に引き込まれたようなイメージです。お話の中で「全国から夢を持った先生たちが集まっている学校ですよ。」ということも聞いて、その点にもとても惹かれました。

―茗溪学園の国語教育の特徴
茗溪学園の国語科の授業は、大学でも習ったことがない独特の授業法でした。最初の年に中3の副担任になり、いきなり中3を教えたのですが、生徒がすでに茗溪の授業法で2年間勉強してきているので、僕よりよっぽどよく知っているんです。たとえば授業で、小説の主人公がいて、その相手が人だったり、人生の壁だったり、そういう要素がぶつかり合って、物事を構成していく、そのような図式を「二つの勢力」という言い表し方をするのですが、生徒の方から先に「先生、これは二つの勢力ということですよね」と言われてしまい、教科室へ帰ってから先輩の先生に確認をしたりしていました。
茗溪父母会のホームページ「先生インタビュー」の杉山明信先生の記事にお名前が出てきていますが、大西忠治先生が茗溪学園においでになった時にこのようにやりましょうとご指導なさったと聞きました。(注:「国語科:杉山明信先生」2003年7月26日掲載
学年が変わっても、先生が変わっても、茗溪の現代文の授業は、基本的に同じ教え方で、中学から高校まで一貫しています。
―国語の教育を通して生徒に伝えたいことは
「言葉の重さと面白さ」です。ちょっとしたことで人を傷つけてしまったり、取り返しのつかないことを言ってしまったりすることがあると思います。だから、大事な場面では本当に言葉を選んで話さなければいけないですね。また、最近インターネット上で行われている、匿名で人を誹謗中傷するような行為、それがいかに愚かなことであるかも伝えていきたいと思います。一方で言葉というのは、ちょっと違うだけでニュアンスが変わってくる、そういった面白さもあると思います。たとえばヘリコプターから畑に向かって種をまくときは「畑」のあとの助詞は「に」も「へ」もつかえますが、自分自身が畑の中にいて種をまいているときは「畑に」としか言えないですね。
どちらかというと決まりだからこうしなさいというよりは、何でこのような言い方が出てきたのかという現象を楽しんでいます。前は「あきらかにおかしい」と言っていたのを、今の子供達が「あきらかおかしい」という言い方をしているのを聞きます。最近の「ビミョー」という言葉の使い方も、また「どんだけー」とか、力が抜けますよね。今の流行の日本語は純粋に面白いですね。自分たちが若かった頃もそのような流行の言葉はあったと思いますし・・・。
子供達の話し言葉にメールが大きく影響して、携帯電話の画面の限られた四角の中で発達というか、退化というかそういうものかもしれません。まさにそういうのが面白いと思いますね。ただし、使い分けできることが大切で、教員に対しても、教室で授業中の話し方と、食堂で向かい合わせに食事をしながら話をしているときの話し方は違って良いわけで、場面に応じた話し方が出来るのかということが課題ですね。
―時代と共に子供は変わりましたか?
茗溪で16年になりますが、世の中が変わっているほど、茗溪生は根っこの部分で変わっていないと思います。
―大学院で学んで
自分の中で良かったことは、茗溪学園で教師となって10年経った2000年に、一年間休みを頂いて大学院に行かせてもらったことです。茗溪の教員は途中でそのように大学院に行く人も多いのです。卒業してすぐに大学院に進むのではなく、茗溪で教員生活を経験してそれから大学院に行ったことに大きな意義がありました。大学院では専攻が国語教育だったので、茗溪のやり方を一部紹介したり、いろいろな研究会で授業法を教わったり、学会に出席する機会もありました。普段の授業も楽しかったです。その一年間を終えて現場に戻ってきたときに、力のついた自分を実感しました。(国語教育の)教科の部分が自分でしっかりしてくると生徒もついてくるというか、授業に深みが出てくるというか・・・。担任の仕事も部活も進路指導も大事ですが、その中で教科が一番大事なのだと気付きました。
―鈴野先生と留学生
茗溪学園にやってくる留学生と関わっているのは、大学で学んだ日本語教師、日本語教育の仕事として希望したことにあります。茗溪学園のように常に留学生がいるという状況は茗溪の生徒達にとって良いことだと思いますし、留学生もとてもたくさんのことを吸収して帰って行きます。最初は和式のトイレにびっくりしたり、給食の時についてくる紙のスプーンに感動したりして、最後は納豆が大好きになって帰って行く生徒もいました。素直に感動している様子を見ていると、彼らを鏡として自分自身が日本文化を知るような気持ちになります。茗溪の生徒達も、単に外国人、外国人という見方をしなくなって、どこの国にもいろいろな人がいるのだということが自然に分かるようになりますね。
また、父母の方の日本語ボランティアはたいへんありがたいです。留学生にとって、学校の先生には言えないことを相談するなど勉強以外の部分でいろいろと助けて頂いています。
―鈴野先生といえば落研ですが・・ 
現在は落研(落語研究会)の顧問です。一番初めは演劇部の顧問、それからサッカー部、テニス部、野球部、そして卓球部もやりました。運動部と並行して落研の顧問をしていたこともありました。実は、茗溪学園に就職してすぐに生徒の前で落語をやったところ、生徒から「落研を作りましょう」という声があがり、落語研究会ができたんです。そのころはラグビー部と兼部という生徒もいました。覚える時間がないので紙を見ながら高座に上がったりしていました。落語にもブームがあって、部員がいなくなって休部の時期もあったのですが、ある生徒に「落研があるから茗溪を受験して入学したのに・・・」と言われて、部員一人で再開しました。その生徒は卒業しましたが、時々漫才の台本を送ってきてくれます。去年、今の5年生がコンビが吉本企画のM1甲子園(高校生の漫才大会)茨城大会に出場して優勝しましたが、その台本は彼の作品です。今年も、このコンビは2年連続の県大会優勝を果たしました。ただし全国大会の壁は厚く本選には2年連続出場することはできませんでした。悩みどころはM1甲子園が落語ではなく、漫才の大会だということです。高校生の落語の大会はないのです。中学、高校では落語をやっている学校が少ないのかもしれません。
   
―個人的な活動、ライフワーク等は?
ライフワークというほどではないけれど、落語(鈴野先生の高座名は『香車亭年五楼』だそうです)が出来なくはなりたくない。以前は筑波大学の学園祭にOBとして出場をしていましたが、最近は同期の人たちが来なくなってちょっとさびしいです。一年に一回くらいは機会を見つけて発表をしてみたいですね。ときどき桐創祭ではやっています。家で落語の練習をやっていると子供がそれを真似したりして楽しいです。
落語の最大の弱点は最初から聞かないと分からないことです。話を途中から聞き始めても、登場人物が誰で、いまどうしようとしているか。テレビのように絵を見て分かるのではなく、しゃべっている言葉しか手掛かりがないので・・・。落語は、まさに想像力の世界です。今、テレビや映画でちょっとした落語ブームです。聞くのも楽しいですが、私はやるのが楽しいです。
―今までの人生で一番嬉しかったことは?
今までで嬉しかったことは何かなと考えると、結婚してちょっとたった頃に「ああ、(結婚して)よかったなぁ」という思いがじわじわと来たり、子供が産まれて、その産まれた瞬間よりもまたちょっとたった頃に「ああ、幸せだなぁ」としみじみと感じたりしていました。大学に受かった時も、その瞬間よりも、あとで感じるタイプなんですね。(笑)。
―余談ですが・・・
実はもともと何かを書いて人に見せるのが好きだったのです。
小学生の時に、野球漫画を描いていたんです。(ここで鈴野先生作の野球漫画を見せていただきました。)巨人の星とか侍ジャイアンツとかが大好きだったので、それらにかなり似た感じの漫画です。友達に見せた時の反応が楽しかったですね。これは小5から中2くらいまでの間に描いたものです。結局、完結しないまま終わってしまいましたが・・・。(笑)

それと、これは大学の4年間に書いていた絵日記です。(家計簿に書かれたイラストつき日記4年分を見せていただきました。)これも友達に見せる日記だったんです。今でいえば、ブログに近いですね。定期的に友達が読みに来るので、ある程度読み手を意識して書いています。
今、学級通信のようなものが苦でないのは、こういうことが根底にあるのかなと思います。自分が書いたものを読んでもらって、そこから何か感じてもらえるのがすごく嬉しいですね。
―今までの人生で悲しかったことは?
いろいろとありますけれど、悲しくて悲しくて大泣きしたとかいうことは無いです。あえて言えば、大学を出て仕事を始めたばかりの頃は仕事上の壁が断続的に来て辛かったことはあります。
―日常の生活で一番大切にしていることは?
自分の子供と過ごす時間ですね。とても楽しいです。今だけなのかもしれないですけれども・・・。子供が泣いたり、私が叱ったりするのも含めて接しているのが本当に楽しいです。上が幼稚園で5歳の男の子、下が2歳の女の子です。兄妹でもその性格は全然違いますね。また自分が親になって、子供に対する気持ちが変わりました。まさに、親の気持ちが分かるようになりました。
―10年後の自分・ 20年後の自分・ 30年後の自分は?
10年後は現役で、20年後は定年の頃で、やはり教師は楽しいので、現役でいたいですね。30年後はどこかで「お話のおじさん」をしているかもしれません。子供達を集めて『お話会』をしてみたいですね。落語に限らず、表情でお話を聞かせられるような・・・。考えると楽しいですね。
―茗溪学園の父母や父母会活動に対しての率直な意見、感想は
すごいなあと思います。特に1、2年生のキャンプボランティアに来てくださる父母のパワーはいつも感激します。学校のファンだって言ってくださる方がたくさんいるのはとてもありがたいし、力になります。担任1年目の頃は失敗ばかりでしたが、父母の方々にその1年間は支えていただいていたという思いが強いです。教員にとって応援団になってくださる父母会があるということは幸せだと思います。
―鈴野先生、本日は長い間楽しいお話をありがとうございました。