茗溪学園 父母会

社会科:柚木太先生


今回は、社会科の柚木太先生です。
2006年3月11日(土)茗溪学園101小教室にて、インタビューにお答えいただきました。社会科教育に対する熱心な取り組みやお考えを聞かせていただいております。どうぞお楽しみください。
父母会HP編集委員会  内田(28K)、斉藤(28K)、塚田(28K)、森田(29K)、伊藤(30K)
-幼少のころはどのように過ごされましたか?
母の実家のある山形県米沢で生まれまして、その後は父の仕事の関係で小学校高学年になるまで各地を転々とし、3年以上同じところに住んでいませんでした。引っ越しについては、そういうものだと思ってましたので、転校の緊張というのはあまりなかったと記憶しています。今となっては各地の地域性みたいなものを懐かしく思い出します。
小学1~3年生の頃は千葉県船橋市の郊外に住んでいまして、学校が終わると、小学校の校庭でドッヂボールや野球などをして遊んだり、友達と自転車で遠くまで出かけ、道端にいる虫や田んぼのザリガニを捕まえたりして遊んでいました。ほとんど自然の中での生活でした。


小学4・5年生の頃は東京都北区にいました。山手線を見下ろす都市部に移りまして、環境がまったく違うのですが、同じように自転車で上野や巣鴨あたりまで友人と遠出していました。そのころ通っていた小学校の近くの児童館に、膨大な数の漫画本があり、「鉄腕アトム」「火の鳥」「ちかいの魔球」「ハリスの旋風」などを夢中で読みました。特に「火の鳥」に強く影響を受け、歴史に興味を持つようになりました。地理的に近かったことから、友達と自転車で王子の紙の博物館や神田の交通博物館、上野の科学博物館などに行ったりしました。今から思うと知的な刺激を多く受けたように思います。
最後に、小学6年生の時に茨城県伊奈町に引っ越しました。当時、身長がすごく高かったことから、小学校のミニバスケットのチームに入り、それから大学時代まで、学生時代はバスケットをやっていました。再び自然の中というか、田んぼの中での生活でしたが、ひたすらバスケットボールに明け暮れていました。とにかく体を作る一年間だったように思います。

-柚木先生は茗溪学園ご出身ですが、入学されたきっかけは?
小学6年生の時の担任の先生が東京教育大学出身の先生で、「新しい学校だけど入ってみたらどうかな?」と勧めてくれたのと、バスケットチームの先輩が茗溪学園に入っていて、「出来て間もない学校で、いろんなことをやる。グラウンドをつくったり、芝を植えたり」というような話を聞いて、面白そうだと思いました。考えたり迷ったりということはあまりなかったですね。
-茗溪学園時代はどのように過ごされましたか?
私が入学した年に、初めて中学1年生から高校3年生までそろいました。学校全体が、何もないところから自分たちで作っていくという雰囲気だったので新鮮な感じがしました。今もそうだと思うのですが、上級生が下級生を大事にする気風を感じました。
当時、文化祭の後夜祭では、キャンプファィヤーをしていました。その時の高校3年生が最後にみんなで大声で歌っているのを見て、中学3年生のころ、「これが青春か~。」と思ったことを記憶しています。文化祭をはじめとして、行事がたくさんで、忙しく、楽しく過ごしていました。
部活はバスケット。まさにもう部活三昧でしたね。特に高校2年から3年にかけて、部活がものすごく楽しかったです。
当時、バスケットにとても情熱のある筑波大学の大学院生がコーチに来てくださっていて、この方が、アメリカ各地を歩いてバスケットボールの歴史を調べたものや、日本にバスケットボールが入ってきたいきさつを取材したものを、自分でカメラを回してビデオに撮られていて、部活のミーティングで上映してくれました。コーチの話されることが難しく感じたように思うのですが、そんなことより何より、人間的に惹かれました。このコーチの指導のもと、試合でめきめきと勝ち上がるようになりました。県大会などに行くようになると、小学校時代のミニバスケットで練習試合とか大会で顔を合わせた選手達と再会するようになりました。相手チームに対して、勝った負けたとか、ライバルというよりバスケットで結ばれた仲間という感じがして、それがまた良かったですね。
もう1つ、勘違いから始まったんですけど、中学3年から高校1年にかけて音楽に熱中しました。ギターが大好きな同級生に、その時ヒットしていた歌のタイトルを見せられて、「お前このタイトルで作れるか?」と聞かれたのを、「お前このタイトル知ってるか?」と聞かれたと思い、「うん!」と言ったのがきっかけで、結局そのタイトルの曲を自分で作ることになり、その流れでバンドをやることになっていきました。
バンドの仲間3人は、その後もギターを続けていたり、レーサーになったり、美大に行って芸術を続けたり、様々な方面へ進んでいます。大学時代の友人は、ゼミ中心だったこともあって、同じ方面の興味を持っているある種似た者同士でした。それはそれでとても大事な関係ですが、茗溪学園時代の友人は、このバンド仲間のように、目指すところも様々でしたし、クラスで見ても、学年で見ても、本当に個性豊かな面々でした。そして中学高校と6年間続いていることと、たくさんの行事を通してとことん付き合う機会に恵まれたことで、深い友人関係が築けたと思います。
-個人課題研究はどうでしたか?
個人課題研究に取り組んでいるときは、先生から「職業につながる」などの話を聞いても、そうしたことは意識していませんでした。研究テーマとして歴史に関することをやりたいと考えていました。私の場合「好きなこと」「やりたいこと」というのが根っこのところにあって、そこからテーマを探しまして、「日本古代史と民俗学が交わるところ」というのをテーマに選びました。研究を進める中で『日本の古代国家』という本に出会いまして、これを書かれた井上光貞先生に傾倒というか、あこがれました。その井上先生が千葉県佐倉市の歴史民俗博物館の初代館長になられていたことを知りました。そうしたことを通して、どういう人がどういう所でどういう事をしているか、ということを意識するようになりました。そのことがそのまま大学選びにも応用されましたし、大学で歴史学を専攻することにもつながり、現在歴史を教えている自分がいるわけで、確かに個人課題研究は結果として職業につながってきています。
-進路はいつ頃どのように決めたのですか?
茗溪学園は、「何でも一生懸命やれ。」という指導なので、部活や行事がたくさんある中で、受験に本腰を入れて取り組み始めたのは若干遅かったですね。高校2年のおしまいくらいから志望校を絞りました。その時に決める基準となったのが、個人課題研究だったんです。「何を勉強したいんだろう?」とか、「何を仕事にしていこう?」と再度考えました。そして、「民俗学」と「歴史」の両方に興味があったので、両方勉強ができる所を探しました。
-教師になろうと思ったのはいつごろですか?
高校時代はまったく思っていなかったです。
大学生になって教材づくりにとても興味を持ちました。図式化した分かりやすい教材とか、レプリカの史料を実際に触りながら理解していく教材、コンピューター上で立体の地図をつくり自在に動かすことのできる教材など・・・・・・。でもそれはまだ、教員になろうというのとは違う感じでした。そういう中で、教育実習で授業をした時に、自分の知識のなさを痛感して悔しかったのと同時に、もっと面白い授業をやってみたいと感じました。教育実習の総括で、実習生の一人が、「これまで教育をそんなにすごいこととは思っていなかったが、今回、教育とは人間を生み出すことだとわかった。」と言ったことがストンと腑に落ちて、教員への道を本気で考えるようになり、もっと勉強しようと大学院に行きました。そして、筑波大学大学院在学中の後半の1年間、非常勤で茗溪学園に来たときに教師になろうと決心しました。
-就職先に茗溪学園を選ばれた理由は?
大学院在学中に日本史の授業を非常勤で1年間勤めました。その1年間が自分に与えた影響は大きかったです。高2の選択授業だったのですが、まず生徒たちの反応がよかった。そのときの生徒たちは13回生でして、自分とは7歳差でした。生徒というよりも後輩たちという意識の方が強かったかもしれません。そういう意味で親近感を強く持ちました。と同時に高校生特有の何といいますか、斜に構えたというかそういう感じの子もいました。そういうのもかわいく思えました。自分自身もそんなに素直ないい子ではなかったですし。
どういういきさつかは忘れましたが、日本史の何時代が好きか、ということが授業中の話題になりました。そのときに、自分は戦国時代が好きとか、明治時代が好きとか言っていたのですが、ある生徒が「特にこの時代が好きというのはない。全部の時代が面白い。どの時代の人々も面白い」という趣旨のことを言いました。これは自分にとっては大きな意味を持つ言葉でした。
いつだって人間は善いことをしたり、悪いことをしたり、ズルいことをしたり、素晴らしいことをしたりして生きてきた。そのこと自体が面白いとあらためて思うようになりました。そして直接生徒たちと向かい合って教えられることが大きいぞ、たくさんありそうだぞと思ったわけです。それ以前、職業を考える中で教材づくりを仕事にしたいと考えていたのですが、それにも増して授業の中での生徒とのやりとりに面白さを感じました。
しかも、この授業が面白いという感じは、茗溪学園の生徒たちのポテンシャルの高さに支えられているわけです。好奇心の強さ、知的なものごとへの前向きな姿勢、そういう茗溪の雰囲気にも惹かれたということです。
同時にまた、まっすぐな子にも、そうでない子にも、後輩たちに自分にできることを何かしてあげたいと思いました。素直ないい生徒ではなかったからこそ、そういうところで役に立てる部分があるのではないかとも思いました。

-茗溪学園の社会科教育の特徴をお話ください。
社会科だけではないですが、「本物に直面する」、「本物に触れる」、がキーワードです。
これは教室内の授業だけでは難しいですから、社会科では中学3年の広島・京都の研修旅行はとてもよい機会です。たとえば、京都では「調べる」という課題があり、事前に班ごとで話し合ってテーマやそれに合った訪問先を決めます。
そして、自分たちで訪問先に取材をさせていただくお願いをするわけですが、何度も断られる班もあります。「なぜ断られるんだろう?」と考える中に、「自分たちのアプローチの仕方」や「相手の事情を察する」など学ぶことがたくさんあります。
また、「人が気持ちを動かすのは、どういう時なのか」や「自分たちの行動が他者に及ぼす影響」などは、子供たちがやってみて感じられることです。成功や失敗の経験が、学校の勉強という枠を超えて、大学生や社会人になってからも生きてくると思います。そういう意味で失敗も大事ですね。
-柚木先生が社会科を通して子供たちに伝えたいことは何ですか?
ひとつは、いろいろな立場があることを知って欲しいということです。立場によって物事に対する理解や、解釈の仕方や定義が違います。それを踏まえた上で、自分はどの立場にいて、それをどう見ているのかという自覚を持てるようになって欲しいと思います。
もうひとつは、だまされないで欲しいということです。私が教える歴史にしても、多くの資料を基に解釈したものですが、もしかしたらその解釈に間違いがあるかもしれません。新聞の記事にしても、同じ出来事に対して、社によって説が違うこともありますし、テレビの報道もすべてが正しいとは限りません。それから、インターネットのいろいろなホームページに書いてあることも、まるっきり鵜呑みにしてはいかんということです。社会というものを、いろいろな情報を基に分析して、流されないで欲しい。というかだまされないでね、という感じです。
生徒たちが大人になって子供を持ったときに、しっかり子供を育てられる親になって欲しいと思います。
また、歴史というと、たくさん覚えることがあるたいへんな教科という印象が強いのですが、「そうじゃないところが面白いんだよ」ということを、手を変え品を変え話しています。ただ単に歴史を教えるのではなくて、それを糸口にして、そこから、どんどん広がっていくような授業を心がけています。
-先生にとって歴史の魅力とは何ですか?
きっかけが、「火の鳥」シリーズとの出会いでしたので、古代の日本は好きです。
それから高校生の最後のころに、日本の中世史の研究家が書いた、におい、色、肌触りなどを、ひっくるめた歴史を描こうという発想の本に出会い、その時から中世の鎌倉時代や室町時代にも興味を持ちました。
歴史とは人間を考える学問です。政治・経済からにおい・色・感情までにおよびますし、組織の中の人間というのも本当に面白いと思います。こういうことは中学生にはわからないこともあるだろうし、面白いとは思わないかもしれません。自分もそうだったと思いますが、今になって面白くなってきました。今では、人間の歴史の積み重ねであるどの時代も、魅力があると思っています。

-今までで一番楽しかったこと・悲しかったことは何ですか?
子供ができたときうれしかったです。日常生活では、必ず子どもと顔をあわせるようにしています。
悲しかったことは今のところないです。
-10年後・20年後のご自分をどのように想像されますか?
10年後ぐらいには、教材でこれだという確定版を作りたいです。それですべてというわけではないですけど、1つの形として作りたいです。
20年後は、そろそろ引退を考えるころですね。まだ具体的に考えていませんが、子育て支援のような地域活動をしたいですね。私の世代の30代というと、地域とのつながりやバイタリティーが弱いように思います。50代位の方たちって、お母さん同士のつながりや、いろいろなネットワークなど、ものすごくバイタリティーがありますよね。それが世代的に途切れてしまうのはもったいないと思います。人間のつながりや、地域の活動の大切さをこのごろ強く感じています。
-ありがとうございました。