茗渓学園4年父母会シンポジウム報告

茗溪学園24回生の父母に贈る卒業生からのメッセージ
 「あの頃、親に言いたくても言えなかったこと、言って欲しいのに言ってもらえなかったこと」
平成15年2月1日(土)13:30より、第一AVE室にて、上記のテーマでシンポジウムが、開催されました。対象は、進路選択の只中にある24回生の父母でしたが、卒業生の皆さん、進路指導部長の高島渉先生から、たいへん参考になるお話をお伺いできましたので、当日ご参加いただけなかった父母の皆さんにも、また子どもたちにも、ぜひ内容をお伝えしたいと思います。
パネリスト(敬称略)
山川智子 10回生 大学・高校講師、大学院生
高端正幸 11回生 シンクタンク研究員
松延純司 12回生 航空会社勤務
松延美鈴 12回生 テクニカル・ファーマシスト
鳥山暁子 16回生 大学院生(建築)
コメンテータ
茗溪学園進路指導部長 高島渉先生
コーディネータ
24回生父母会学年委員長 秋元和夫

 

 

 

●自己紹介,茗溪時代を振り返って
山川 ドイツ語の教師をしています。大学院では、EUと日本の言語政策の比較を通して外国語教育の多様化について、研究をしています。今、振り返ってみると、茗溪学園の教育は、多様な個性・興味を伸ばすものだったと思います。これは、現在の私の研究にも生かされていると思います。
高端 茗溪学園に入学したのは、留学がしたかったからです。小学生の頃から、広い世界を見てみたいという願望がありました。高校2年から、UWCのイタリア校に留学できたのは、たいへん得がたい経験でした。留学中しっかりやれたのは、それまでの茗溪での4年間のおかげだと思います。
鳥山 小学校の先生が、あなたは変わっているから、公立の学校だと苦労するかもしれないと茗溪学園を勧めてくれました。茗溪では、個性的なことが当たり前で、それぞれ自分のやりたいこと探してがんばるという感じだったと思います。大学に入ってから論文を書くのに、人と違った視点を見つけて書いてやろうと思えるのは茗溪時代に身に付けたことが役立っているのだと思います。
昨年修士の卒業制作として、つくば市内で両親の経営するカフェ、ギャラリーの設計・内装をやらせてもらいました。
松延純 茗溪学園では、いろいろな経験をさせてもらえました。6年間一緒に過ごした友達とは、価値観も同じなので、今でも腹を割って話し合うことができます。隣にいる妻は、高2、高3のクラスメートです。高校時代から、航空業界に入りたいと思っていました。これを貫いていけたのも、茗溪のおかげと思っています。
松延美 茗溪学園に入ったのは、両親が見学に来て気に入り、勧められたからです。私自身は、寮生活ができることに惹かれました。まわりに、海外生がたくさんいたので、いつかは留学したいと思うようになりました。社会人になってから、シアトルに1年間留学しました。
高島 本人たちを目の前にして言うのも何ですが、ここにいる卒業生たちは、たいへんしっかりしていますが、ことさらに特別優秀な人たちを選んだわけではありません。(笑)
●進路選択
松延美 母は薬剤師で、父は理系の研究職でしたので、自分もなんとなく理系に進みました。個人課題研究は、「月経周期の調整について」をテーマに取り上げました。遠泳の時、薬で月経周期を変えた経験があり、興味をもったからです。かといって、薬学部に行こうとは高校3年の夏まで決まっていませんでした。夏休み前に、担任の先生に聞かれたときも、どうしたらいいのかわかりませんでした。先生には、「夏休みは勉強しなくてもいいから、いろいろな本を読んだり、人に会って話を聞いたりして、何がしたいか決めろ。それが、お前の宿題だ」と言われました。これが、とても力強い支えになりました。
松延純 小学校の時から、飛行機のパイロットになりたいと思っていました。個人課題研究は、「飛行機の翼について」でした。大学は航空宇宙工学科に進みました。やりたいことがはっきりしていましたので、迷うこともなく大学には推薦入学で入ったのですが、卒業する頃になるとこのままでいいのかという疑問がわいて、大学院に進みました。その後は、当初の目標どおり、運良く航空会社に就職することになりました。
鳥山 父は彫刻家、母はジュエリー創作家ですので、自分の適性や職業をなかなか考えられませんでした。両親を見て、自分はもっと現実的な仕事に就きたいと思うようになりました。建築を選んだのは、手と頭の両方を使う仕事だと思ったからです。個人課題研究は、「美術館の建築」というテーマで、いろいろな美術館の建物をみて、建築家の仕事に興味がわきました。4月からは、建築会社の設計部に就職します。
高端 小学生の頃から新聞を読むのが好きで、時事問題に興味がありました。数学が好きでなかったので、文系に進むことにしました。個人課題研究は「南アフリカのアパルトヘイト」でしたが、UWCに行くことになったので、途中までしかできませんでした。UWCについては、将来につなげるほどの考えは持っていませんでした。イタリアは、当時東欧諸国に変化があったので、東欧に近いところということで選びました。
日本に戻ってから、帰国子女枠で横浜国大と京大に合格しました。親は京大を強く勧めましたが、自分は横浜国大を選びました。しかし、入学してみるとそれまでの2年間がとても充実していたので、大学が物足りずにバドミントンばかりやっていました。しかし、そのまま社会に出るのは嫌だと思い、大学院に進みました。人に決めてもらうと後悔が残ったと思いますが、自分が決断したことは自分が責任をとるという気持ちになれました。
山川 父は「地震と火山」について研究していました。単身赴任が長く、地震が起きると職場に駆けつけるという仕事でした。それを見ていて、私にはとてもできないと思いました。母には、戦後の混乱期にあったため「自分は若い頃勉強することができなかった。あなたは恵まれている」と言われました。
文学やことばに興味があったのと、茗溪在学中に東西ドイツが統一したこともあり、ドイツ語を学ぼうと思いました。ところがドイツ語は、今の日本では需要が少なくなっています。仕事に就こうとすると、非常勤の仕事しか見つかりません。そこで、言語教育全体を横断的に考えようと大学院に入りなおしました。
●親に言ってもらいたかったこと、言いたかったこと
高端 茗溪学園時代は、親が自分の世界に入ってくることが嫌でした。面談や部活に、親が来るのさえ嫌いました。親より、友人とのかかわりの中で、悩みは共有してきたと思います。父は、成績についてはとてもうるさかったのですが、今になってみれば、それくらいでちょうどよかったのかも知れないと思えます。
山川 中学・高校生に正論や常識を押し付けても、仕方がありません。私は、仕事のグチなど、もっと打ち明けた話を親から聞きたかったと思います。父は、ずっと単身赴任していましたし、母は祖母を介護していたので、親をあまり困らせるようなことは言えませんでした。
松延純 進路選択については、親とあまり相談しませんでした。相談すれば、勉強しろと言われそうでしたし…。特に、父親とは距離があったように思います。個人課題研究の時には、相談したかったのですが…。私には、双子の兄がいて、同じく茗溪生でしたので、二人で相談しあえたのはよかったと思います。
鳥山 部活(吹奏楽)にあけくれ、家に帰ると疲れてイライラしていました。部活がなくなってから、親との会話がスムーズに行くようになりました。受験勉強だけすればいいと思ったら、逆に勉強が楽しくなりました。うちの親は、「そんなに勉強ばかりすると、頭が悪くなるよ」と言うような親だったので、自分がしっかりしなければと思っていました。(笑)
勉強するようになって、理系の科目は成績が上がったのですが、暗記が苦手で文系の科目がどうしてもよくなりません。家の経済状態を考えると国立へ行かなくてはと思いましたが、自分の成績では無理です。「私立に行かせてください」と、やっとのことで親に言いました。すると、親は「がんばってあなたを学校に行かせるのは私たちの仕事だから、あなたは好きなだけ勉強しなさい」と言ってくれました。本当に、ほっとしました。
松延美 親には社会に出たらどういうことがあるか、具体的に言って欲しかったです。高校生の頃は、いったい世の中にどんな職業があるのかよくわかっていないので、いろいろな職業の人に会わせてもらう機会があれば、良かったと思います。
両親からは、女性であっても、自分と子どもが食べていけるだけの経済力を持ちなさいと言われていました。それは、職業選択にも影響したと思います。
茗溪学園時代は寮に入っていたので、母親からは手紙や電話をよくもらいましたが、自分からはほとんど連絡をしませんでした。あるとき、母親と電話でけんかになり、いきなりこちらから電話を切ってしまいました。わたしは、もうそれですっきりしていたのですが、2時間後に寮の廊下を歩いていると、向こうから突然母が現れて、「さっきの電話の切り方は何?」と叱りつけられたのにはびっくりしました。夜も遅いのに、東京から電車を乗り継いで、すぐに母はやってきたのです。ああ、この人にはかなわないなとつくづく思いました。
今はもう亡くなった母ですが、この母の思いに恥じないような行動をしなければといつも思っています。親の強い思いは、子どもに必ず伝わると思います。
●高嶋先生のコメント
自分が何に興味があるのかわからない子は、大勢います。進路の決定に際して、結果的に適当になってしまう子は必ず何人かはいますが、そうなるまでの過程が問題です。なによりも、本人が自己決定することが大切で、そうしないと後で躓いたとき、自己責任がとれません。ただし、親は突き放したら、放って置いてよいというわけではありません。「好きにしなさい」ということばを発するときには、「信用しているから」という思いが伝わっていなくてはなりません。叱るときも、信用していないから叱るのではなく、その部分について理解してくれるだろうという思いをもって叱ることです。結局、子どもに伝えられるのは、親がその子をどれだけ信頼し、どれだけ愛してきたかということくらいですが、それがまた、大切なことでもあると思います。
これから取り組もうとしている個人課題研究は、将来の職業につながればよいのはもちろんですが、直接つながらなくとも、ここで人生を考えて、人間の幅を広げていくことができます。また、論文のまとめ方や研究の姿勢を学ぶという点では、たいへん役立つと思います。

(記録まとめ 筒井圭子)

●秋元学年委員長の感想
茗溪生とは、これほど魅力的で素晴らしい人材に成長していくものなのだろうか。パネリストの方々の高校時代を想像し、わが子を重ね合わせてみようとしてみても正直ギャップが大き過ぎるとの印象を禁じ得なかった。そこで、コメンテータの高島先生にその点を繰り返し確認したわけだが、本人を前にしてもその答えは一貫して「ごく普通の茗溪生」との厳しめの評価であった。終了後、パネリストのお一人は、「お子さんも自分なりにいろいろと考えている筈です。心配ないですよ」と言ってくれた。また後日談として、その方からは「これまでの人生をあれだけの発言で要約したとき、苦悩と迷いに満ちていた思春期の自分が、何とすっきり、こぎれいに描けてしまうのだろうと、我ながら時の経過を痛感した」とのメールもいただいた。親ばかと言われるかもしれないが、「わが子も少しは期待できるかな」と安堵し、「もっと信頼してみよう」と思えるようになったのは、この行事の最大の成果と言えようか。
●役員父母の感想
24回生を持つ親として、茗溪学園残り二年間、見えない不安を思いつつの今日この頃でしたが、卒業生の笑いあり涙ありのディスカッション後にはスッキリした気持ちになれました。子供を信じ落ち着いて見守っていこうと思いました。主人と共に参加させていただき、すばらしい機会をありがとうございました。(4E 岸川)
昼食を共にしたときの会話の中で、パネリストの方達の肩の凝らない、気負いのない自然体を感じ、「皆さん、お若いのに落ち着いているな~。」という印象を受けました。この“落ち着き”はどこからきているのだろう…?「自分自身と真っ向から向き合い、努力を惜しまず、物事に突き進んでいる。そういう”自信 ”からなのか!」とシンポジウムのお話を伺いながら納得しました。我が子の10年後の姿を思い浮かべながら…(4B 大和田野)
考えてみれば、子どもに限らず、すべての人間関係は「愛と信頼」なのですね。娘とともに、お互いの「愛と信頼」を量りにかける毎日です。(4C 筒井)