国語科:窪山剛司先生


書道の窪山先生は、読売書法展・漢字部門で連続入選され、読売新聞社賞を受賞されました。また、日展にも連続入選されています。
2003年11月21日(金)茗溪学園書道準備室にて、長時間にわたりインタビューにお答えいただきました。
ユーモアを交えた和やかなお話の中に、生徒達への熱い想いや人生に対する真摯なお考えが隠れています。どうぞお楽しみください。
取材協力 湯原さん(26・28)
父母会HP編集委員会 齊藤(28)
-5回目の日展ご入選、おめでとうございます(今回は約11倍)
いや、お恥ずかしい。あんまり胸張って言えないですよ、15回も落ちているんですから(笑)。ずっと落ち続けて、他の人とは違う「自分の字」を持ち始めてからですね、評価してもらえるようになったのは。(作品の)意味は・・・かなり前に書いた物なので(笑)。10月17日が搬入日で、京都で表具するために1ヶ月位かかるので、書いたのは9月14,15日ですね。日展は、誰でも出せます。だからといって、誰でも出しちゃいかんのです。大学生位で応募しても、ちゃんと(審査で)見てなんかもらえませんよ。出品した時点で、あるレベルは超えているわけです。

【第35回日展入選作「冠」】
-ご出身は?
福岡です。生まれてから高校卒業まで18年間。大学が筑波大学で、それからずっとこちらで、今年で23年目です。


-教師になったきっかけは?
高2の頃は、中学時代にお世話になった先生の影響と得意教科だったこともあり、大阪教育大に入って数学か理科の教師になろうと思っていたんです。大阪を志望したのはとにかく福岡から出たかったから。ところが「おまえが主要5教科を教えたら生徒がバカになるぞ。それよりも書道界のスターになれ。」と書道部の先生に言われて・・・。それが妙に説得力があって。スターという言葉に弱かったんですね(笑)。
-茗溪学園との出会いは?
大学卒業後、研究生として残ったんです。大学院の試験に落ちてしまって、奨学金も出なくなるし、進学するつもりで就職活動もしていなかったし。教員採用試験は受けましたが、2次試験が大学院の試験と重なってしまったので・・・。
それで、非常勤の講師を探していたら、茗溪とA校とB校が募集していまして、全部見学に行きました。A校は自分の母校と雰囲気は似ていたんですが、書道と国語の授業を参観して・・・やめました(笑)。B校は当時創立2年目位だったと思うのですが、今とは全然生徒の雰囲気が違っていて・・・やっぱりやめました(笑)。
茗溪もできて7年目位で比較的新しい学校だったんですが、生徒がすごく素直だった。環境が一番良さそうで、1年だけのつもりだったので決めました。その時は大学院に進もうと思っていたし、母一人子一人なので九州に帰らなければいけないと思っていたので。
でも、教え始めて5月頃には「ここで書道の先生になりませんか。」とお話があって、何度かお断りしたんですが、NOと言えない状況を作られてしまって(笑)。誘ってくださった当時の教務部長と国語科の小出先生ご夫妻がいらっしゃらなければ、ここにはいなかった。まあ、運というか、縁というか、運命ですかね。
-書道を始めたきっかけは?
小学校4年の時に両親が離婚して母子家庭になりましてね。母が仕事に出ることになって、このままではろくな子供に育たないからと、週6日見てくれる習字塾へ私をぶち込んでくれまして(笑)。学校からまっすぐ習字塾へ行って6時までお習字。そこでご飯を食べさせてもらって、その後空手を教わって、お風呂に入ってから家に帰る。これを小学校6年の2学期まで続けました。
-学生時代のお話
中学時代は運動一筋で、小さな学校だったのでサッカー部と陸上部、そして卓球部を兼部していました。一番力を入れていたのはサッカーです。書道は、「女・子供の仕事」みたいな気がして、提出しなければならない宿題も出しませんでした。
ところが、高校に入学してクラブ活動の見学に行ったら、サッカー部は全国レベルで100人位部員がいて、「ああ、自分のいるところじゃない」と的確な判断が働きまして(笑)、入れば誰でもレギュラーというバレーボール部に入部しました。ところが、病気で2週間入院して戻ってきたら、バレー部はクビになっていました。
そこで、以前から自分に目をつけていたらしい書道の先生に、「丁度欠員ができたから書道部の見学に来い。」と連れて行かれて、入部する羽目になったのです。その後は、皆勤です。学校も1日も休んでいません。
 
-高校の書道部
書道部は1学年4人しか入部させないんです。展覧会の出品が1校8人までだからなんですが。高2の終わり頃に書道界のスターになろうと決めてからは、それはものすごい量の宿題が出ました。部活を終えて家に帰ると10時。ご飯食べて風呂に入って、11時から始めるんですが、朝の4時位までず~っと書いているんです。2時間だけ寝て、6時半にはバスに乗って登校です。それを高校3年の1年間、ずっと続けました。土、日は、更にすごい量の宿題が出まして。本を3冊渡されて、それを全部書いてこいというものなんです。「ええ~、できません。」と言ったら殴られましたね。「やってみる前にできないとは何事か。」って。2日間徹夜して書くんですが、やっぱりできない。すると、「根性がない。」とまた怒られて。1年間続いたのは、気が小さくてNOと言えないから(笑)。その頃の字をみると、やっぱりヘタです。うちの生徒の方が、はるかにうまいですよ。
-号:墨翠(ぼくすい)
高校卒業の時に、書道で大学に行くのだから・・・と高校の先生が付けてくれました。「翠」というのは、翡翠の翠ですが、「若い」という意味があるんです。「墨が若い」という意味で、つまり下手くそということなんですよ。もう一つは中国語では「翠」は緑色のことで、中国人が好む色で「美しい」という意味も含むのですが。「墨(書)が美しい」という意味になるように目指していますがね。難しい号を付けられちゃったなぁと思います。
-茗溪の書道教育
字がうまくなるためだけじゃないんです。情操教育なので、自然に身に付けていくものですね。テストで確認できるものでもないし、一生かけて続けるものです。ですから、怒ってまで教えようとは思っていません。茗溪を卒業して何かの時に、「あ、書道でもやってみようかな」という気持ちを持ってくれれば・・・とは思っています。私が書かせたいものを自由に書かせているので教科書は使いません。3年生からは選択授業ですが、高校生になると普通は部活でやるような作品を書きます。教室では場所がないので、廊下にずら~っと並べてね。手を抜こうと思えば「(お手本)見て、書いて、出して」でも済む教科ですよ。でも、自分が生徒達にやってやれることは、できる限り与えてやろうと思っています。それが面倒くさい、煩わしいと思ったら、(教師を)辞めたほうがいいと思いますね。彼らが持っているものを最大限引き出してやりたいと思っています。
私は、大学3年の時から今のお師匠さんに師事していますが、今でも京都までお稽古に行きます。今思うと若かったせいか、もったいないことをしたなと。若い頃はただ通うだけで、お師匠さんから盗んでやろう吸収してやろうという気持ちがなかった。これは生徒達にもよく言うんですが、自分達の恵まれている環境に気が付いていないですね。他のカリキュラムにも言える事ですけど、きっと卒業して他の学校の人と交流すれば、いかに茗溪がいい学校で恵まれていたかということに気が付くと思いますよ。
 
【1mm1万円(!)の墨と現在ご使用の筆】
-書道が上達するには?
みんな最初はヘタですよ。素質というものは、ないです。書道のうまくなる人というのは、素質ではなくてその人の人格的なものがとてもある。練習してもうまくなる人とならない人がいて、うまくならない人はそういう書き方をしている。言われたとおり一所懸命に書いていなくて、気持ちがほんの少し他に向いていたりしてね。
書道がうまくなる条件というのはいくつかあって、一つは教えている先生が上手なこと。先生に近付くことはあっても、先生よりうまくなることはないですから。二つ目は素直なこと。教わったことをそのまま「そうか、そうか」と思って疑問を持たないで書くことです。三つ目はあきらめないこと。あきらめてしまったらそこで終わり。そこで止まってしまいます。これは、自分にも当てはまります。これで完成したということはなくて、一生続けていくものですから。あきらめた時点でゼロになってしまいます。やらなきゃという気持ちがあれば、どんどん成長していきます。
-今までの人生で一番嬉しかった事
間違いなく子供が生まれた時ですね。その時は、「もうこの子が大きくなるまで死ねない」と思いましたね。すごい責任感というか。子供は女の子3人ですけど。
書道をやっていて一番嬉しかった事は・・・書道の教員になったことですね。人と話すことが苦手だったのですが、教育実習に行ったら、生徒達と話すことが楽しくて。教員になって本当に良かったと思いますね。
-今までの人生で一番悲しかった事
両親が離婚した時もそうですが、父親の死に目に会えなかったのが、つらかったですね。20歳の時だったんですが、母方の祖父が亡くなって九州へ帰ったら、「実は父親も亡くなっていた」と聞かされまして。墓にすがって泣きましたね。ありがとうと言えなかったし、さよならも言えなかった、というのがつらかった。
大学時代は仕送りも無くて逆に仕送りしていたんですが、その頃すごく可愛がって頂いてお世話になった方たちがいまして、ありがたくて幸せで泣いたことはありましたね。自分は恵まれている、救われているなぁって。これは嬉しかった事になるのかな。
-10年後、20年後、30年後の自分
将来はこれ(書道)で食べていくことが目標ですが、今は教師と書家とどちらがいいかと聞かれたら、間違いなく教師を取りますよ。趣味でやっていれば楽しいですが、生業になると苦しい。それに書家にやりがいを見出すことは難しいです。でも、教師は本当にやりがいがある。定年後は筆一本で食べていけるようになりたいし、その頃には人が付いてきてくれる書家にならなければと思っています。字がうまいだけじゃなくて、人格的にもね。目標といえば、まあ文化勲章をもらうとかね(笑)。私のお師匠さんが現在80過ぎですが、その年齢になった時にお師匠さん位の字が書けるようになることが大きな目標ですね。
書で一本立ちして教師を辞めたらね、営業部長は杉山先生。杉山先生は口がうまい!事務局長は川島先生。川島先生は頭がいいんだ。経営者になったらいいと思うよね。もう仮契約は済んでいるのでこの二人にお願いして、僕は書の団体の教祖でね。年商2億が目標(笑)。
 
-日常生活で一番大事にしている事
子供や家族は別格ですからね、あれは自分の命みたいなものですから。それ以外となると、やっぱり生徒ですかね。大事にしてますよぉ、気が付いていないかもしれないけど(笑)。当然厳しいことも言いますけど、それはどうにかしてやりたいと思うから言っているのであって、どうでもよければ何も言いませんよ。家族を除けば、やっぱり26回生ですね。(注:窪山先生は3年生〔26回生〕学年主任)
あとは、座右の銘じゃないけど、「悩むならやってみよう」ということです。後悔するよりは、失敗してもいいからやってみよう。行動も1歩引くと、そこから出られなくなりますから。1歩でも2歩でも前へ歩いていかなくちゃいけない。そこから、自分が生きてきた証が残るんじゃないかな。
-茗溪の父母は?
自分が若いので(笑)父母の方とお話するたびに緊張してドキドキしますよ。
26回生は本当にいい関係だと思います。役員さんを中心にキャンプなどのボランティアに参加された方たちへと父母の間で輪が広がっています。ボランティアも、参加するというのではなくて、自分も楽しむ気持ちで気軽に出ていただきたいですね。父母の方たちとお食事会など開くといろいろな意見が、それも本音の形で出てきます。自分の子供だけじゃなくて、学年や学校全体を考えてくれますし、疑問や不満も、父母同士の話で納得してもらえたり、誤解が解かれたりして、こちらとしては応援団のようで本当に助かっています。至れり尽くせりという感じで、ありがたいですね。