美術科:水見剛先生

2016年10月29日、茗溪美術展開催中のつくば美術館にて美術科の水見剛(みずみ たけし)先生にお話を伺いました。

茗溪美術展とは年に1度秋に、生徒が美術の授業で制作した作品をつくば美術館で展示するもので、美術の授業を受けている全生徒から少なくとも1作品は出展されています。また、教職員や父母、卒業生の作品も展示されます。水見先生は美術展の総責任者ということになりますが、お忙しい中を縫ってホームページ委員会のインタビューに答えてくださいました。

 

-出身地や中学、高校、大学時代の思い出について教えていただけますか。

出身は、長崎県諫早市です。諫早の佐賀県寄りで、家の前からあの潮受け堤防が見える場所に住んでいました。
3人兄弟で、兄、姉、年が離れて私です。小さいころから、自分で物を作ったり絵を描いたりするのが好きでした。父親は美術の教員でした。彫刻を中心に油絵も描いていて、母は書道をやっていました。

うちは子どもにおもちゃを買うということがほぼない家庭でした。欲しいおもちゃはおもちゃ屋さんで眺めて、これはこうなっているのかなと思って厚紙で家に帰って作ることをよくやっていました。いろいろ作りましたが、作ったもので一番大きなものはUFOキャッチャーみたいなおもちゃです。あとはあまり良くないことですが、教科書のすべての角にパラパラ漫画! どの教科書にも描いていました。

父親が学校の美術の先生だったため、子どもの頃から自分もそのような方向でやっていきたいとは思っていました。具体的に美術のほうに進もうと思ったのは高校の時です。美術部に入って本格的にやり始めました。

高校は普通科でいわゆる進学校でした。その中で、学年で美術系に進むのは私だけ。美術部には自分以外にも若干部員がいたのですが、ほとんど一人活動みたいな感じでした。ただ、勉強に費やす時間のほうもだいぶ多かったです。そういうことも考え、筑波大学芸術専門学群がいいと思ってこの大学への進学を希望しました。

私は昭和45年生まれで、共通一次試験を受けた最後の学年です。ちょうど受験は、昭和天皇が崩御した年で、茗溪ではラグビー部が花園で全国優勝した年に当たります。共通一次で点数をとらなくてはいけなかったので、最後は必死で勉強しました。

 

―先生は現在日本画が専門でいらっしゃいますが、筑波大学の専攻も日本画だったのでしょうか?

実は筑波大学へは当初、洋画(油絵)で入ったのです。日本画自体をこちらに来るまで知りませんでした。絵と言ったら油絵かなと思っていたのですが、この絵の具は何か性に合わないなと心のどこかでは感じていました。

『班猫(はんびょう)』 竹内 栖鳳 1924年(大正13年)

今は場所が移りましたが、日本画専門の『山種美術館』という美術館に行ったときのことです。竹内栖鳳(たけうちせいほう)という明治から戦前まで活躍していた日本画家がいるのですが、その画家が描いた猫の絵をここで見て、ものすごく圧倒されました。その絵のインパクトが強かったのです。今まではわりとものを油絵的な見方で見てきたのですが、その日本画の何というか…深さを感じて感動を受けて。

あと日本画の絵の具はとても綺麗なのです。瓶に絵の具が入っているのですが、それは天然の岩石を砕いたものです。藍銅鉱だったり孔雀石だったり珊瑚だったり。わぁ!すごく綺麗だな、と思いました。

それから1年生の夏前くらいに大学の先生に相談して、若干のすったもんだの末に洋画から日本画の専攻に移り、なんとか日本画を始めることができました。実際に描いてみて、ああ、やっぱり自分はこっちのほうだな、という感覚がありました。

ただ絵の具の扱いがとてつもなく難しいし、値段は高いし、アルバイトして稼いだお金があっという間に消えてしまう。ちょっと多めに絵の具を買ったら普通に10万、20万かかってしまいます。日本画の絵の具は砂でできているので、他の画材と比べると伸ばすことができないのです。アルバイトは2年生のときに古くて小さい車を買ってから家庭教師を主にやっていました。美術ではなくて数学などを教えていましたが、稼いだお金はすぐに絵の具と和紙などに消えました。

 

-茗溪学園はどのようなきっかけでお知りになりましたか。

父も教師をやりながら作家活動をしていたので、自分も教師にはなりたいと思っていました。地元の長崎には島がいっぱいあり、本当は離島の先生をやりたかったのです。10数人の学校に憧れがありました。ただ、自分の中でもう少しちゃんと絵をやりたいという思いもあり、大学院を受験して進学しました。

茗溪学園を知ったのは大学4年の教育実習のときです。それまで茗溪学園のことはまったく知りませんでした。教育実習を希望する人が一堂に集まり、実習に行きたい学校を紙に書くのですが、茗溪の読み方も知らないままに「茗溪」と「中高一貫」というのを見て、ここにしてみようかなと。

 

-当時の茗溪学園と茗溪生はどんな印象でしたか。

公立とは違う何か、エネルギー感をすごく感じました。生徒が凄まじい食いつきを見せていて、ずいぶん面白い学校に来たなと感じました。
茗溪の教育実習が終わってその年から大学院修了まで、夏休みの美術部の合宿に呼ばれました。大学院修了後は私立の女子高の非常勤講師として勤務する傍ら絵画教室なども開いていました。もう少し関東に残ろうかと考えていたときに、うちに来ないかと茗溪の先生から誘われました。非常勤講師を4年勤めてから専任教師となり、今に至っています。

 

-茗溪の美術教育の特徴と、それを通して生徒に伝えたいことを教えてください。

いろいろなことを一生懸命させるということを中心に考えています。一生懸命やって大変な思いをしてできあがった先に感じる達成感や楽しさを味あわせたいということです。例えば4年生で日本画に取り組むのですが、楽をしようと思えば色紙を買ってきてそこに描けば済むわけです。でも学校でやっているのは和紙をサイズに切ってパネルに水張りをします。胡粉といって、膠と練って団子にして叩きつけたりなど白い絵具を一色作るのにもとても時間がかかります。生徒は「なんでこんな面倒なことやらなきゃいけないの」と言いますが、本当の作業をさせたいのです。

美術の教材にはたくさんキットがありますが、そういうものをそのまま使うことはほとんどありません。かといって難しくて大変なばかりでは嫌になってしまうので、ちゃんと手順を踏んでやっていけば、みんないいものができるようにしてあります。そうして苦労しながら良いものができたという達成感、充実感を味わってほしいと思っています。

 

-美術が選択授業になるのはいつからですか。

3年生からです。ですから美術を選択しないと日本画はできません。芸術選択は書道、音楽、美術から一つ選択で、一旦選ぶと5年生まで変更することはできません。大体生徒の希望通りに決まります。
1年生の油彩の自画像、2年生の油彩の静物画、3年生の油彩の風景画、このへんは茗溪学園の美術教育の柱としてずっと同じカリキュラムですが、その他はいろいろ変わっています。

 

-茗溪学園では美術大学に進む生徒もわりとたくさんいますね。

そうですね、普通の高校ですと学年で1人、2人といったところですが、茗溪では10人くらい美大に行きますね。それは茗溪学園の進路の考え方から来るのではと思っています。自分が将来何をやりたいか考えることから始まっているのです。「この授業が得意でこの授業が苦手だから」あるいは「就職に有利そうだからこの分野に進もう」というのではなく、「将来どの分野で自分は貢献できるのか」という考え方が大きいのです。それが美術だったり他のものだったり。

とはいえ、学校にデッサン教室、デザイン教室などもありますし、サポート体制はしっかりしています。 日頃からずっと東京の予備校に通うと学科とのバランスが難しくなるので、そういうところに通うのは長い休みのときだけで、学校生活の中で、普段の美術の授業で力をつけてほしいと考えています。

茗溪美術展

また、茗渓の美術教育の中で茗溪美術展は大きいと思っています。この前4年生の授業で農業巡検のため半分クラスが欠けたんです。ビデオでも見せようかなと思いましたが、自転車通学者がどのくらいいるか聞いたら14人中8人いました。これは美術館に行けるなと思い、20分後につくば美術館集合ということになりました。自転車でない生徒たちは私が車に乗せて行きました。

それで見学させてレポートを書いてもらったのですが、良い経験になったようでした。自分の絵が美術館に飾られることは滅多に経験できませんし、生徒たちもなかなか見に来ることはできません。「描いているときはそうでもなかったけれど、実際に飾ってあるのを見たらけっこうよく描けていた」とか、「次の課題はもう少し頑張ろう」などといった感想が聞けてとてもよかったです。

 

-先生の個人的なことについて伺います。今までの人生で一番うれしかったことを教えてください。

やはり子どもでしょうか。上の子が男の子で真ん中と一番下の二人が女の子になります。子育てにはできる限り多くのことをやっていきたいと思っています。生徒からは「今のうちですよ。そのうちお父さんは敬遠されますよ」と言われていますが。
子どもの出産にはすべて立ち合いをしているのですが、その場に立ち会うと、男性は女性に頭が上がらなくなるというのがわかります。出産はあんなに感動するものなのだと感じました。自分は痛みを感じられないけれど、出産という大変な思いをして誕生した子どもだと思うと…。子どもが生まれてからものの見方が変わった気がします。

それまでの私の絵は「人の気配はあるが、若干物悲しくなるような絵」を表現することが多かったのですが、出産に立ち会ってから全然違うものになりました。美しいものをよりきれいに感じられるようになったというか、表現としてだいぶ変わりました。

また時間的な制約もあります。それまでは自分一人でスケッチ旅行に行って、一人で自分の心を揺さぶられるような景色などを描いていました。今ではどこに行くにも絶対子どもを連れていくことになります。景色を見ていると、子どもを通して自分が見ているような感覚があります。(茗溪美術展に出品されていた)潮干狩りの絵もうちの子どもたちです。時間とお金を使って潮干狩りに連れて行くのですから、行ったからには1枚絵を描かないとね。

『潮干』(左) 『夏の終わり』(右) 水見 剛

-スケッチの他にカメラなどに風景を収めたりもするのですか?

スケッチするのとカメラと両方使いますが、実際はそれだけでは足りなくて、家に帰ってから子どもたちにモデルをしてもらっています。そういえば私も父親のモデルをやっていましたね、彫刻でしたが。普通モデルは長くても20分やって10分休憩ぐらいです。父は自分の子どもなので何も気にしないで、1時間以上立ちっぱなしにされて死ぬかと思いました。私は自分の子どもにはそんなことしていません。言われなくてもうちの子はすぐに休みますから。

 

-日常の生活で一番大切にしていることはなんですか。

自分がいろいろなことに感動できなきゃ駄目だな、と思っています。ちょっとしたことにちゃんと感動できるように、そういう感性をずっと持ち続けたいです。

 

-ちょっとしたことというのは例えば。

葉っぱが一枚落ちてきたとか。
これを表現してみたいというのは、自分の中にそれを感じて、ああ、表現したいなと思うのがきっかけですが、絵を描いていくとそのときの時間や気持ちが画面に蓄積されていると思います。そしてできあがった絵を見ると、そのときの自分が蘇る。だから、自分の時間が形となって保存されているような感覚があります。

 

-芸術家の方はみんなそのような感覚なのでしょうか。

私はわりと自分が実際に出会ったり見たりしたものに対して、感動したものを自分の中で消化して出していく形ですが、人によっては、日本画でも自分の中で形を作って現代美術的なことをやる人もいます。だけど、おそらく日本画の人はたいてい自然に学ぶということが中核になっているのではないかと思います。もしかすると少し油絵の芸術家とは感覚が違うかもしれません。どちらかというと職人に近いのかなという感じはします。自己表現というものではなくて、自然から感じたもの、受け取ったものをどうやって画面に定着させていくかみたいなことなのかな。

そうは言っても実際は描いていて楽しくないことが多いですよ。うまくいかないから苦しいことのほうが多いです。でも、私の好きな言葉は「大器晩成」。大学のときに、制作があまりうまくいかなかったんです。そのとき大学の先生に「まあ、水見は大器晩成だから」と言われて、あ、そうかと。そこからわりと絵を続けられているような気はします。たとえうまくいかなくても、今やれることをやれば、いつかなんとかなるかなと思っているのです。

現在は、日本美術院(院展)に夏と春の年2回出すのを軸に、それ以外は春に茨城美術会(茨城の日本画の団体)、秋には茨城県芸術祭美術展覧会(県展)に出品しています。その他いくつかのグループ展にも出品しています。県展には3年ほど前から出し始めて、一昨年は「優秀賞」、去年は「奨励賞」をいただき、今年はやっと「特賞」という一番上の賞をいただくことができました。

 

-美術以外で、趣味などは何をされているか教えてください。

家の家具を作ることです。小さいものだと机や棚、大きいものだとカウンター・キッチンやウッドデッキなど。あと料理は好きですね。炒めている瞬間が一番好きです。男の人はみんな好きなんじゃないかな。鍋を振り回しているときがとてもいいのです。夕食はほぼ私が作ります。冷蔵庫の残りものとその日のスーパーの安いものの兼ね合いで作っています。基本、料理は私で後片付けが妻なので、日曜日は私が昼も作らないといけません。夏休みになると朝昼晩作っています。でも作ることよりもメニューを考えることのほうが面倒ですね。自分で考えることもありますけど、クックパッドなどに頼ることもあります。

 

―最後になりましたが、茗溪の父母や父母会に対して率直な意見・感想をお聞かせください。

茗溪美術展には父母の方も出展されていますが、もっと出していただいてもいいのになあと思います。父母の方の出品は展覧会に幅を持たせてくれます。教員だけでは限界があるので、もっと積極的に出してもらえると非常にありがたいです。ちゃんとできたら出そうと思っているといつまでたっても出せないので、とりあえず作品を思い切って出展していただけたらと思います。私もずっとそうしています。

 

長い時間インタビューに答えていただきまして、どうもありがとうございました。
水見先生の更なるご活躍をお祈り申し上げます。

インタビュー担当:岸(40K)、殿塚(40K)、山田(40K)、横瀬(40K)、塩田(40K)