<<定年退職されました>>
今回は国語科の後藤義昭先生です。
2011年7月12日(火)、茗溪学園会議室でお話をうかがいました。
―先生の小学校からの出身校についてお話いただけますか。
生まれは横浜の日吉で、3歳ぐらいで藤沢に引っ越しました。ちょうど辻堂と鵠沼の境目で、湘南の海まで歩いて10分の所に高3まで家族で住んでいました。小学校は藤沢市立の辻堂小学校、中学・高校は栄光学園という中高一貫の男子校です。
―どのような中学・高校時代を過ごされましたか。
中学では、勉強した記憶が本当にないんですよね。部活はバレー部で一生懸命やりましたが。栄光学園で周りの皆が当たり前のように勉強している中で、どんどん落ちこぼれていきました。階段を転げ落ちるように勉強ができなくなっていったのが、中学時代の思い出です。
やっぱり勉強ができないというのはいろいろな意味で大きな屈折になるので、なぜ勉強しなければいけないのか、少しかっこよく言えば人は何のために生きるのか…自分の中で堂々めぐりをしていたのが高校時代です。友達と集まっては話しこんだり、栄光学園はキリスト教倫理の学校なので信仰や人生に関わるいろいろなディスカッションをしたり…。生きることについては、一生懸命考えた時期だったと思いますね。
―大学生活はいかがでしたか。
現役の時には東大文Ⅲを受けて一次試験で敗退しました。一年浪人ののち、筑波大の第二学群の比較文化学類へ。高校時代にいろいろ考えていた時に、国語の先生でタイプが違う3人の先生のことをそれぞれいいなと思っていたんですね。非常に理知的な先生と、人間味のある先生と、哲学的な先生。それを見て、自分も国語の教師になりたいというのは高校時代からかなりはっきりしていましたので、文学部を志望しました。
大学ではボート部に入り、ボート漬けの日々でした。ボートは、運動生理学ではスキーの距離競技と並んで最も過酷なスポーツだと言われています。木のシートに座って漕ぐので、お尻が痣になって膿んだり、固いオールを握る手の皮がベロベロにむけたりしましたね。また、水辺に練習拠点がないとできないスポーツなので戸田や土浦に艇庫や合宿所があって、いつも合宿生活をしているんですよ。当時部員は男子ばかりで、飯炊きも全部自分たちでやっていましたね。2年生からは、冬の年越合宿で正月も土浦の合宿所で迎えていました。4年の夏のインカレ(全国大学選手権)では、エイトで3位になりました。
なんだかんだいって運動は中学以来ずっとやってきたという感じですね。
―先生という職業を選ばれたのはなぜですか。
高校時代に、企業の歯車となって働くのはいやだと感じたことと、人間関係が器用ではないと思っていましたので、教師になって子どもと交われたら、ということを思っていました。ちょうど大学を卒業する年に茗渓会が『茗溪学園』という学校を作ることになり、茗渓会である筑波大学に募集があって採用が決まりました。教育大から引き継いだ筑波大ボート部の1期生として歴史を創る苦楽を体験したこともあり、新しい学校を自分たちで作っていけるという喜びは大きかったです。
―茗溪学園開校当時のエピソードはありますか。
生徒は多種多様で9割方が寮生でしたから、毎晩枕投げをしたり、寮の行事委員会がお楽しみ会をやったり、誕生日会をしたり、和気あいあいで毎日が修学旅行のようなスタートでした。その中で、寮生たちは「僕たちはこれで良いのか」と、寮生総会をひらき、すごい討論をしたのを覚えています。教員は全員寮に住み、開校にこぎつけたものの方向も見えなくて、24時間子どもと向き合い、とにかく夏休みまでは疲れきっていました。あの疲労感というのは今でも体が覚えています。楽しかったですけれどね。
―当時と比べ、生徒たちや学校は変わってきましたか。
生徒たちはだんだんドライになってくるというか、茗溪学園だけではないけれど、今の生徒たちは小粒になっていったというか、うんと悪いこともしないけれど、リーダーシップをガンガンとって行くような子もいなくなってきました。初期の茗溪には、とんでもないリーダーみたいな生徒がいましたね。
―茗溪の教育についてお聞かせください。
茗溪の教育がめざしているのは、大学進学実績を伸ばしながらも全人教育の理念の両立ができる学校、そして子ども一人一人のために学校がある、教師がいる、ということです。そういった茗溪の良さややり方を理解してくれる子どもたちが茗溪を受験し、受かった子には楽しみながら茗溪で学んでもらうことが、本来求める茗溪のあり方だと思います。そして、その子たちが茗溪のよさを発信していってくれると嬉しいですね。実際、茗溪の卒業生には、レポートを書かせればしっかり書く、ディスカッションすれば自分の考えをはっきり言う、という形で社会的に評価されている子たちが多いと思います。また、茗溪のもう一つの柱は、子どもと親と教師とが一体となって学校を作って行く三位一体の学校作りです。この子にとってどういうことが一番の幸せなのだろう、どういう学校にしていったら子どもたちにとって一番良いのだろう、と私たちは考えています。
―10年後の先生は、どうされていると思いますか。
10年後の前にとりあえず5年後ですが、現在55歳なので、60歳になるとちょうど今の35回生が卒業をして私は定年になるんです。35回生が最後の6年間付き合う子どもたちになるので、今まで自分が茗溪で培って来た経験を全部出していこう、という思いがあります。
学級通信「言の葉」を書いているのも、茗溪の子どもたちの6年間およそ2100日間の学校生活をできるだけ記録として残しておきたいということと、子どもたちが茗溪での6年間何をして何を感じてきたか、そういうことを記録として残しておきたいという気持ちがあります。
その後のことは、今はあまり考えていません。「酒と漂泊に生きる人生」というのが理想です。仕事をしている今も酒は飲みますけれど、時間が無くて漂泊はなかなかできていないので、リタイアしたら日本のあちこちを旅してまわれたらいいな、と思っています。
―日常の生活で一番大事にされていることは何ですか。
「考えること」です。何をするにもまず考えて、一番いいと思うことをやりたい。「考える、ゆえに我あり」という感じです。学級通信を書くのは+αの仕事かもしれませんけれど、今子どもたちの中で何が起こっていて、子どもたちにこれを伝えることが必要なのではないか、ということを考えながら書いています。酒を飲むのもひとりで飲むのが好きなのですが、飲みながらいろいろなことを考えます。
―学級通信などは手書きで書かれますが、手書きにこだわる理由は何ですか。
自分の頭でものを考えたい、自分の言葉で表現したい、そしてできれば自分の文字で伝えたい、というのがあります。書くというのは紙と鉛筆とが擦れる、そのひっかかりがとても大事だと思うのです。書いている時間は考える時間でもあります。ラブレターはやっぱり、手書きですよね。 「書く」というのは「愛する」、ということでしょうか。ちょっとキザな言い方になってしまいますけど。
携帯やパソコンが嫌いなのは、今、目の前にある画面しか見えないからです。書いている場合には下書きも含めて、自分の中で全部見ようとしていて「今ここを書いている」ということが自分でわかる。そういう思考の仕方が大事ではないかと思います。
―茗溪の国語教育の特徴についてお聞かせください。
国語を科学にしていく、ということでしょうか。茗溪の国語の授業で私は「構造読み」という、全体を大きく見るという作業をとても大事にしています。よく子どもたちに言うのですが、木を見て森を見ずになるな、と。木を一本だけ見ても、その森の木の育ち方はわからない。ヘリコプターで上空まで行って、森全体を俯瞰することによって、その森の木1本1本の育ち方がわかる。まず森があって木がある。そして木が1本1本あって、森が形成されている。森と木の関係というのを学ばせていくというのが、広い意味での道徳、教育ではないかと考えています。また、構造を読むということは、作者がどういう意図でこの物語を構成しているのかという主題に繋がります。茗溪の国語の授業に本当にしっかり参加していけば、大学入試レベルの国語は全然怖くないと思いますよ。
―国語を通して生徒に伝えたいことはありますか。
試験で点を取るために授業があるんだと思っている子が多いですね。国語という教科は暗記科目とは一番縁遠くなくてはいけないんです。大事なのは教材をどう読んだかという結果ではなくて、これを通して、小説を読むとは、論説文を読むとはどういうことなのかを学ぶことです。また、今の子どもたちが今までの右肩上がりの成長に代わる、人間にとっての本当の幸せとは何なのかを、自分たちで考えられる人間になってほしいですね。自分の頭で考えるということが大切ですね。
―先生の個人的な活動やライフワークについて、お聞かせください。
全国生活指導研究協議会という教育サークルに関わっていて、そこで学んだことを茗溪学園の生徒たちにどれだけ還元できるかが私のライフワークかもしれません。これは国語の研究会ではなくて、生活指導のサークルです。 国語というのは教科の中では一番生活と密着していて、たとえば昔の生活綴り方教育は、国語の教育であると同時にすぐれた道徳教育でもありましたから、その流れも汲んでいます。私にとっては、国語と担任としての生活指導は一体のものです。
―読書と国語力の関係、そして本の嫌いな子、好きな子について。
たくさん読めば国語力がつくというのは、私は嘘だと思います。本を深く読むというのが大事だと思いますね。例えばヘルマン・ヘッセの「デミアン」、これは予備校時代に3回か4回読みました。自分の気に入ったフレーズをルーズリーフに書き出しながら、ここで作者は何を言おうとしているのか、それに自分は共感できるのか、といったことを考えながら読んでいました。
読み聞かせはとても大事だと思います。もともと文学は、口承文学、口伝えとして生まれました。日常会話ではなく、語り継がれる言葉というのが熟成していったわけです。読み聞かせを丁寧にやってきた子どもは、国語力はわかりませんが、言葉を使って考えることができると思いますね。読書のあまり好きでない子には、赤川次郎なども良いです。私が一番読書に熱中していたのは、小学校高学年の頃のシャーロック・ホームズ・シリーズでした。言葉によってストーリーに引き込まれることを覚えました。
茗溪には図書館族と言われる子たちもいます。中学時代は運動系の男の子たちのほうがメジャーですから、男の子の図書館族は、馬鹿にされたり疎外されたりもします。でも高校になると、本で蓄積されたものが出てきます。茗溪の卒業生には作家もいますよ。
国語の読解力をつけたかったら、しっかり授業に参加しようと言いたいです。全般的な国語力という意味では、理を尽くした言葉でお父さん、お母さんと、あるいはお兄ちゃん、お姉ちゃんと話すということでしょうか。言葉のキャッチボール、まず受け止めて、投げ返してあげる、それが大切だと思います。投げてきたボールは、受け取ってすぐに剛速球で返さず、ふわっと返してあげるとよいです。そうするとまた向こうが取って返してくれます。私は子どもが2人いますけれど、幼児期から赤ちゃん言葉を使ったことがないんです。2人とも成績がよかったわけではありませんが、言葉だけは一応使える子どもになっていますね。
―愛読書や好きな作家について、お聞かせください。
高校生のときに読んだ「こころ」。実は「こころ」がますます好きになったのは、グループで付き合っていたとても才能のある女の子に「後藤君はこころの先生の面影がある」と言われ…とても嬉しかったのです。中島敦の「山月記」。臆病な自尊心と尊大な羞恥心、知識人の自己認識がとても好きです。外国の作品では、ヘッセの「デミアン」。これも高校時代に尊敬していた学年でトップの友人から「デミアンにはお前の面影がある」と言われて。やっぱり人間というのは、自分に近いものを模索していきますから。この3作品は私の基礎になっています。作家でいうと、もちろん漱石、鴎外。現代作家では、灰谷健次郎が一番好きです。井上ひさし、言葉を大事にした人です。それから倉本聡。全然ITと関係ない生活をしてきたというところが好きですね。作家でも自分に似たものを見つけられる人が好きなんです。
―お忙しい中、貴重なお話をありがとうございました。
父母会ホームページ委員会 幸田(36K )、磯(35K)、斎木(35K)、斉藤(35K )、塩田(35K)、皆川(34K)