今回は数学科の永田眞裕先生です。
2009年10月31日(土)午後、茗溪学園会議室でインタビューに答えていただきました。
父母会HP編集委員会 長命(29K)、槌尾(29K)、北本(29K)、森田(29K&30K)、茶木(30K)、伊藤(30K)
―ご出身はどちらですか?
埼玉県草加市です。生まれは東京ですが、3歳くらいの時に草加市に引っ越してきて、大学卒業まで過ごしました。中学は草加中に通いました。1学年に13~15クラスもあるマンモス校でしたが、中2の時に分かれて私は新設校の瀬崎中に移りました。その後埼玉県立春日部高校に入学しました。
高校時代は相撲部に入っていました。たまたま見に行った時、誘われるままに入部してしまいました。小中学校時代から相撲をよく見ていましたし、父親に国技館に数回連れて行ってもらったこともあり、またその時相撲部に体格の大きい人がいなかったことも入部する気になった理由のひとつかもしれません。部員数が少ないにもかかわらず、関東大会まで行きました。僕は身体が小さいので、最初の頃は大変でしたが、当時はそれでもかなり鍛えていたので身体の小ささを結構カバーできました。


大学は東京学芸大学に進学しました。校舎が小金井にありましたので、武蔵野線を使って通学していました。大学時代は書道部にいました。
―茗溪学園との出会いは?
大学4年の冬、指導教官から『茗溪学園で教師を募集しているのでどうですか』と紹介を受けたのが茗溪との出会いです。実は大学院に進むつもりで修士課程の試験に合格していたのですが、経済的な事情もあり、教職を考えていたところでした。「筑波に新しい学校ができて面白そうだし、筑波大学が近いので勉強しようと思えばできるよ」「教職に就いてしまうと他の学校を見る機会も無いので、見てくるだけもいいのでは?」のアドバイスを頂いて見学に行きました。
その日はちょうど高2の寒稽古の時でした。寮に泊めていただき夜遅くまで先生方と話をして、翌朝5時に起床、流れのまま寒稽古に参加しました。寒稽古にはびっくりしましたが、この学園に寮があるところにまず惹かれました。そもそも、僕が学芸大に進学したのも、いろいろな行事を通して生徒と関わることが面白いと思ったからですが、その点、寮のような私服姿で生徒たちと触れ合うことができる場所は魅力的だなと思いました。それで茗溪学園に就職を決めました。
―先生になろうと思ったきっかけは?
中学2年の時、生徒会の役員や会長を務めたのですが、文化祭や卒業生を送る会を主催する度に「学校で創る文化は面白い」と思ったのがきっかけです。学校創設1年目だったのでお手本もなく、全て手探りでの準備でした。行事の前1週間くらいは、先生方が夜9時頃まで準備に付き合って下さったり、暗幕が無いけど予算も無いので黒いラシャ紙で作ったり、そういった準備にとても時間をかけていたのを思い出します。一緒に活動してくれる大人がいるということがとても嬉しかったですね。
―どうして数学を専門に選んだのですか?
たまたま数学しかできなかったんです。他の科目はよく解らなかった。(笑) 元々、自然科学の発展の歴史に興味がありましたし、数学だけは一旦解らなくなってしまうと大学進学にも支障があるかと思って、頑張って勉強していました。でも、一番の理由は、「学校の先生になれたらいいな」という思いが先にあって、「何を武器にすればいいかな」と考えた時に『数学』を選んだ…ということでしょうか。
―数学を通して生徒に伝えたいことは?
『数学』も昔から人が培ってきた文化であり、昔の人が苦労して整理をしたからこそ、今それを簡単に学ぶ事ができるわけです。人が生きていくということは、生活がどんどん積み重なっていくということなんです。受験科目としての数学ができるようになるだけではなく、そんなことを次の世代に伝えたいですね。
―茗溪の数学教育の特徴を教えてください。
自由に授業をさせてもらえるので、やりたいことが授業内でできる事がいいですね。教科としての進度や大切なこと等は学年毎で話し合われますが、その他については一任されていますから。また、「解り易く教える」工夫はしていますが余り重点をおいていません。(笑) 聞いただけで分かってしまうと、すっかり理解したつもりになって本人の力にならないのです。
数学に限らず、個人課題研究でもそうですが、生徒と一緒に活動することでこちらが刺激を受けて逆に教わることも多い。それが楽しいですね。
―今までの人生で一番嬉しかったことは?
まず、家内との出会いですね。子どもを授かった時にも「これで親になるんだなぁ」と思うと、とても嬉しかったです。それから、昔私が教員として寮に入った時、同時に中1で寮に入ってきた男の子が、今年の3月に結婚したのですが、彼の成長はもちろん社会人になった彼に今こうして会えるというのも嬉しかったですね。
―逆に一番悲しかったことは?
そんなに無いですね。何かアクシデントがあったとしても「成るようになるさ」とか「それだけの努力はするよ」みたいな気持ちで人生を歩んできたからでしょうか。
―将来のことはいかがでしょう?
10年後の自分
まだ定年前なので、仕事をしているといいなと思います。
20年後の自分
やりたいことはいろいろあります。今、小さな畑を作っていて、授業の入ってない日は畑に出ているのですが、20年後も畑仕事をしていたいですね。
それに、学生時代に買った書道用紙がいっぱいあるので、書道をしているかもしれません。
30年後の自分
読み終わってない本を読んでいるでしょうかね。
―先日、高校2年生の担任として生徒を引率して行かれた海外研修旅行はいかがでしたか?
今年のオーストラリア研修旅行では、私も1泊だけファームステイさせていただきました。その時私がお世話になった家族の方たちは、決して贅沢ではないけれど、自分の持っている世界で生活することを楽しんでいる、それがいいなと思いました。私はあまり買い物には行きません。食べるものはそれなりに、野菜は適度に取れる生活をしていますし、着るものがそろっていれば買い物をする必要はあまり感じないのです。
消費することは、ある面産業の発展につながっていくかもしれませんが、使えるものは使ってゴミはできる限り出さない生活というものを考えたいです。オーストラリアでは皆さんそれを自然にやっていますし、却ってそれが自然な生活に思えました。
―ご趣味を教えてください。
茗溪に就職してから歌と出会いました。寮と学校の往復だけの生活に少し危機感を持っていた頃、演劇をされている先生の舞台に行ったのですが、その時「東山動物園の象(※)の歌『ぞうれっしゃ』・親子合唱団員募集」のちらしを見て合唱団に参加しました。

※第二次世界大戦中、日本中の動物園でたくさんの動物が殺されました。しかし、名古屋の東山動物園には必死に守り抜かれた2頭の象が生きていました。そして大戦後、その象を見るために、全国各地からこどもたちを乗せた特別仕立ての「 ぞうれっしゃ 」が走ったそうです。

その活動の中でやはり同じ戦争の話で「731部隊」という中国での出来事を歌う合唱団を知り、思い切って参加することにしました。戦争は決して体験すべきことではありませんが、知らないといけないことだと思います。想像力を駆使して戦争をしない人間を増やしていきたいと思いながら合唱に参加しています。731部隊の歌「悪魔の飽食」はとても重い。だからこそ、こういった歌をいろんな人に聞いてほしいと思っています。今まで南京、北京、アウシュビッツ、ソウルなどで公演しました。今年は4月29日に東京亀有で公演する予定です。
歌では世の中を変えられませんが、戦争の歌を歌い続けることで、人々の心に戦争のない世界への一歩を踏み出す勇気を与えられればいいなと思います。
―個人的な活動、ライフワークについてお聞かせください。
先ほどお話したように週に1回ほど畑仕事をしています。土を触っているとホッとしますね。夏野菜は結構作れますし、苺などは食べられる部分と、虫食いでもジャムにできる部分がありますからね。ほうれん草が作れるようになると一人前だと聞いたことがありますが、最近ようやく「ほうれん草」ができるようになったところです。また、自分でできる活動領域を少しでも広げていければいいなと思います。いかに豊かに力をつけていけるかですね。生きていくということに関する活動を広げていきたいですね。
―父母会活動についての感想をお聞かせください。
楽しみながら様々な意見を出し合えるところがいいと思います。「こういう時はこうすればいい」ということはなくて、同じ内容でもその時の気持ちや各々の子どもによって、受け止め方も違ってきます。教育とはいろいろな人がそれぞれ違った形で、見て感じて、種々多様な意見を出し合っていくことが大切だと思っています。
―お忙しい中、楽しいお話を聞かせていただきまして
本当にありがとうございました。
先生には歌も披露していただきました。
(著作権の関係で歌をお聞かせできないのが残念です。)
皆さんにその歌が届きますように…。

 ♪夕焼~~け 小焼け~♪