美術科:藤嶋明範先生 

<<定年退職され、現在は彫刻家として活躍されています>>

2004年 12月20日(日)美術作業室にて
今回は、美術科:藤嶋明範先生にインタビューいたしました。
先生はハウスマスターで学寮部長をしていらっしゃいます。
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- 先生のご出身はどちらですか?
出身は秋田県の県北、鷹巣町です。林業の盛んなところでした。美術と出会ったのは、小学校5・6年生の頃です。絵を描くのは好きだったのですが、当時のクラス担任の先生がとても美術に熱心でした。研究会でやってこられたことをすぐ取り入れる方で、毎日のように絵を描いていました。たとえば短時間でデッサンするクロッキーというやり方をその時始めて知りました。朝のホームルームの時間に当番のモデルが前に立って、それを見ながらみんなで毎朝クロッキーを描いていました。そのクラスはみんな絵を描くのが好きでした。いろんな絵を描きましたが、木版画にはよく取り組みました。現在は木版画の教材が小学校の教科書から消えてきていますが、昔は必ずといっていいほどあったと思います。一番思い出に残っているのは共同制作の版画でした。それは“製材所”をテーマにした共同木版画で、7人ほどの班員で大きなベニヤ板に彫刻刀で彫ったものでした。中学では野球部に入っていました。熱心な野球少年でした。レギュラーとして県大会にも出場しました。県大会の後引退してすぐに,美術の先生を訪ねて油絵を教えてもらいました。キャンバスを作ることから教えてもらいました。テント布に胡粉と膠で下地をして、木枠も自分で作って、文字通りの手作りキャンバスを作りました。近くを流れている米代川の冬景色を描いたのが最初の油絵です。高校は、列車で30分位の大館市にある大館鳳鳴高校です。美術部に入りました。絵はたくさん描き、自分たちで企画した展覧会もやりました。この時に絵描きになりたいと思いました。大学は岩手大学です。その後東京芸術大学大学院に進みました


- 教師になったのは いつですか? 茗溪にいらしたのは いつですか?
教師になったのは茗溪に来たときです。茗溪に来て21年になります。
- 教師になったきっかけは?
高校の美術部顧問の伊勢秀夫先生に出会い、大きな影響を受けたことが教師になるベースになっています。高校生である我々を、一個の人間として見てくれましたし、尊重してくれました。絵はもちろんのこと、文学、社会的な事柄等に精通している方で、絵を描く気持ちを教えてもらいました。と同時にその生き方にも感銘を受けました。今でも親しくしていただいている大変尊敬している先生です。
- 茗溪との出会いは?
岩手大学在学中に茗溪との出会いのルーツがあります。同級生に“古山*“という大人物がいました。(笑)ブールデル(ロダンの助手から偉大な大彫刻家になった:代表作は「弓を引くヘラクレス」「英雄」「アポロン」等)の写真集を彼が見せてくれて「彫刻を一緒にやろう」と誘われました。音楽にも精通していて、「パブロ・カザルスによる『バッハの無伴奏チェロソナタ』をこれこそ音楽だ」と聞かされてショックでした。常に一歩前を歩くような人物でした。本人は私を誘っておきながら、彫刻ではなく絵画に進みましたが。(笑)
大学院修了時点では、まったく教員になることは考えていませんでした。
大学院を出て美術彫刻のブロンズ工房で仕事をして2年くらい過ぎた頃、既に茗溪学園で美術教師をされていた古山先生が「茗溪で一緒にやろう」と熱心に誘ってくれました。相変わらず強引な勧めがあって悩みましたが、先生をやってみたいという気持ちがないわけではなかったので、茗溪学園に来ました。
(*古山浩一;茗溪学園元美術科教師。平成13年3月創作活動に専念するため退職。)
- 今までの人生で一番嬉しかったことは?
小学校の頃から野球ばかりしていて鷹巣中学校では野球部に入りました。前から2番目くらいの小さい生徒で、なかなかレギュラーが取れませんでした。万年補欠です。(笑)3年生になって、監督からのスタメン発表で「2番サード、藤嶋!」と呼ばれた時は、本当に嬉しかったです。その時のデビュー戦で結構活躍して、地元の新聞にも最初の試合で活躍したことが載りました。子供の頃の思い出で一番嬉しかったことです。
- 今までの人生で一番悲しかったことは?
悲しかったというよりは恥ずかしかったことについて。強烈に覚えている事です。小学校一年生の時でした。夏休みの宿題に工作を作っていくということがありました。宿題で物を作るのは嫌いだったのかな? 夏休みが終わる日に、やっていない宿題を泣きながらやる羽目になりました。怒られながら、母親と一緒にやりました。工作もほとんど母に手伝ってもらって作りました。真っ白い、きれいな形のよい機関車ができたのですか、形がよすぎて、親に手伝ってもらったことがすぐバレてしまいました。教室に飾ってある期間中、恥ずかしくて気持ちが落ち着かなかったことを覚えています。とても恥ずかしく悲しい思いをした出来事でした。
- 20年後の自分、30年後の自分
定年後に一念発起して五百羅漢を作っているかもしれないです。一日に1個作っても2年、石で作ったら時間がかかりますから一生ですね(笑)。或いは、のんびり温泉のでる町で手打ちそば屋をやっているかもしれないです(笑)。私の蕎麦、おいしいですよ(笑)。何はともあれ彫刻は作り続けていると思います。
30年後?生きてないでしょう。(笑)
- 茗溪の美術教育の特徴
その第一は「展示教育」です。「学校を美術館に」というスローガンに基づいて、常に生徒のすべての作品を展示しています。2週間から1ヶ月の間隔で展示替えをしています。(石彫や個人課題研究は別です)高校1・2年生のクラスに各一人展示係りがいて学校のシステムとして展示を位置づけています。まだやっていない下級生には、「今度こんなふうな事をやるのか」ということで鑑賞されますから、導入が半分はできています。また絵を通してその人が見えてくることもあります。茗溪学園では展示されている作品にいたずらはされないので安心して展示しています。
将来、芸術棟ができるといいですね。
二つ目は、よく観察して再現する力をつけさせているということです。物をよく見て描く。これは比べてみると分かるのですが、例えば靴を見ないで描かせる。次に下駄箱から靴を持ってこさせて実際に見ながら描かせる。この二つのデッサンを見比べてみると、見ながら描いた方がいかに素晴らしいデッサンかが分かる。実際に見て描くことが基本だということです。この「よく見る」ということを、美術の基本に置いています。この基本をベースにしていると、本当の個性というものがにじみ出てくる、ということだと思います。また、近頃の子は生き物と直接触れることが少ないような気がします。中3の授業で実際に生きているニワトリをモチーフにしていますが、出来た作品が本当に生き生きとしていて良かった。いのちあるものの力ですね。自然は近くに豊かにあっても、実はきちんと出かけて見ようとしないと見えないものです。茗溪学園は赤塚公園など、木立がいっぱいで良い環境に恵まれている方だとおもいます。私の好みとしては、近くに川原がないのが残念です。川原があると石を使ったり、土や砂をいじったりいろいろなことが出来ます。水そのものの魅力もありますね。水の中には生き物がいっぱいいるし・・・。
三つ目は「本物に触れる」こと。モチーフについても本物ということが大切ですか、美術作品そのものも良い作品、本物を実際に見る、ふれるということが大切です。
そして年に1回の「茗溪美術展」です。生徒の作品と共に、父母の方からも作品を出展していただいています。また父母の中にも美術を生業とされている方がたくさんいらっしゃいますが、その作家の方達と教員とは違った鋭い観点で、生徒達の作品について語ることができます。批判にさらされると同時にいろいろな方の様々な感想を通して、美術教育についての反省の機会にもなります。

- 美術を通して生徒に伝えたいこと
基本的に美術は心を込めて作品制作をすること。そういう姿勢を教えることだと思います。作品鑑賞でも同じです。心がこもっている作品は必ず良いものが生まれる。表現しようとする気持ちが大切です。ですから、私たち教員は生徒たちをよく誉めます。生徒のいいところを発見する。困っているところがどこなのかを発見する。励ましが基本です。美術的なセンスや作品を作る能力、作品に感動することは、誰もが持っているし、できることです。心を込めて作ることです。気持ちが入るのと入らないのとでは、全然違いますから、一生懸命やれば必ずいいところが出てきます。例えば石なら石の中から自分の形を彫り出すという作業では、技術的に難しいところは手をとって教えたり、実際に彫って見せたりしますが、モチーフは自分自身ですから、自分自身に明確な形に対するイメージがないとなかなか進まない。石のかたまりの中から、自分のイメージした形が見え始めるとどんどん仕事が進むようになります。また、結果的にいい作品に仕上がると、生徒も納得して僕もよく表現できたなと、共感できます。そういう「心の共有ができる」ということが「美術」の楽しさであり、面白さだと思います。また、作品を通していろいろな事を語ることができます。
- 個人的な活動 ライフワーク等
彫刻です。国画会に所属しています。毎年、春の「国展*」が東京上野の都美術館でありますが、この展覧会に所属して作品発表をしています。個展も時々やっています。2003年秋にひたち野うしく駅近くのギャラリーで個展をやりました。キウイ棚のところにある作品は国画会の会員になったときの作品です。ここ数年は具象的な作品から抽象的な作品に変わりつつあります。はっきり分けているわけではありませんが、興味がいろいろ湧いてきています。今取り組んでいるのは、笠間市で産出される稲田石という白い花崗岩の大きなかたまりで、四角い箱を作っています。瞑想のための部屋です。古い作品は第1AVE前にいくつかならべてあります。この中の石膏に着色した男と女の像は、私が生まれた町の(秋田県鷹巣町)陸上競技場の入り口にブロンズ像になって置いてあります。

最近では、生まれて初めて観音様を彫らせてもらった事が私としては初めてのことで、貴重な経験でした。岩手県の北、一戸町(いちのへまち)の鳥越観音*という観音堂のご本尊です。焼失してしまい、新しく彫る事になり、依頼を受けました。

美術品としてではなく、「参拝の対象」として残るものを作らせていただいたわけです。彫刻を作っていて、このようなことは初めてです。自分が作った作品が作品としてではなく、今度は自分も手を合わせて拝むものとなるわけです。彫刻家として、まだまだ未熟な私がやることではなかったのではないか、と思いながらの仕事でした。これまでとは全く違った気分で臨んだ仕事でした。
 (*国展http://www.kokuten.com/)
(*岩手県指定有形民族文化財。伝説によれば、平安時代のはじめまでさかのぼる古寺
http://www.sukima.com/12_touhoku00_01/03torigoe.htm
http://www.shokokai.com/ichinohe/syuukan/torigoe.html)

- 寮について
ハウスマスターを長くしていますが、いつも感じるのは寮生のパワーです。多感な6年間を、親元から離れて暮らすわけですから、寮生生活するだけでも大変な苦労がある。しかしそれだけではなく、目的を持って前向きに生きている。寮生同士の絆も抜きん出て強いです。6年寮生のお別れ会でもあるクリスマス会で、先生や後輩寮生に送られ退場する時は、いろいろな思いが込み上げて、たいへん感動的です。
寮生にとって何が一番かというと、仲間が一番です。先輩・後輩です。
12回生のある卒業生は “茗溪の寮はただの建物であって、そのつくりなどはどうでもよい。問題はその中身である自分たちだ。むしろ自分の中に寮がある、という気分だ。いろんな仲間との毎日の生活が今の自分を作ってくれたと思う。思い出は一日話しても話しきれないほどいっぱいある。寮の仲間とは今でも深い付き合いをしている” と言っていました。寮は、寮生自身の中にある。なかなか味のある言葉ですね。
- 茗溪の父母や父母会活動に対しての率直な意見、感想
父母会の皆さんにはとても助けられています。とくに今は学寮部長をやっているので、寮父母会のバックアップの大きさというものを実感しています。率直な意見交換を通じて方針を理解して頂いていることへの安心感、真剣なお付き合いを通して、自信を持って教育活動をしていくことができるというのは、何より大きいです。茗溪のこまごまとしたところを支えてくれるすごいパワーを感じます。
また、茗溪展へ出品して頂ける、また観に来て頂ける、それらもご父母の方々に応援されていると思うと嬉しくなります。「三位一体」という言葉は創立当初より使われていますが、様々な場面でそれが生きていると思います。
これからも父母会の活動は、いろいろなことをやっていただき、たくさんのネットワークが出来ることを期待しています。
長時間にわたり、ありがとうございました。
藤嶋先生の作品の一部です。
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